1971年「別冊少女コミック」11月号
萩尾ファンであれば本作が『トーマの心臓』の習作版だったと想像してしまうが本当は先に『トーマの心臓』が構想され執筆されつつあったのだが発表の場がなくやむなく先に短編として再構築された本作のほうが世に出ることとなった、という萩尾氏自身の説明があるということらしいです。
私も『トーマの心臓』の後で読んだものです。
ネタバレします。
ついに萩尾望都の大きな扉に辿り着いた気がする。
『11月のギムナジウム』折りしも今11月。
萩尾望都のギムナジウムもの、というと「女性が考えたほんとうの男子ではない天使のような美しさ」とよく評されていて私はそれが不満だったし今もそんな評価に納得はできない。それを言うなら戦国武将ものなどの男たちも結局はファンタジーであって現実の男たちがあんなに勇敢で雄々しいのかと言えば「男たちが考えたほんとうの男子ではない」ともいえるのではないか、といきなり悪口を書いてみる。
いかんいかん。
本来に戻る。
『11月のギムナジウム』完璧と言ってもいい作品だと思う。
この一本筋の通らないようなごちゃごちゃした質感がなんともえいない。
雨の日、エーリクが新しい学校に転校する。
騒ぐ生徒たち。モブシーンが得意な萩尾氏によって学校という雑多でうるさい情景が描かれる。
『トーマの心臓』ではもうひとりの主人公ともえいるユリスモールがここではフリーデルというカタブツなだけの脇役委員長としておとなしく登場する。
おまけにここでは一番エーリクに優しく接してくれる。ある意味『トーマ』でのオスカーの役割である。
そのオスカーは『トーマ』での包み込むような優しさはここでは与えられず傲慢な不良役で登場。しかしこのオスカーもなかなか良いではないか。
しかし何と言ってもドキリとするのは『トーマの心臓』で冒頭に死んでしまい記憶の中でしか登場しないトーマが本作では生きてエーリクと関係してくるのだ。
『トーマの心臓』を先に読んでしまった者にこのトーマの描写はより強く響いた。
「トーマが生きている」
先に書いたように本作は習作として作られたものでなく萩尾氏は『トーマの心臓』を構想し先にすでに描いていたのにもかかわらず掲載してもらうために短編をやむなく新たに描いた、というのなら明らかに「出だしで死んでしまうトーマがもし死んでいなかったら」というパラレルを描いたことになる。
といってもどちらにしてもトーマはすぐに死んでしまう運命ではあるが。
萩尾望都氏は『トーマの心臓』を構想した後だった、とはいえこちらの道程もあるか、と考えたのだろうか。
しかしトーマが前に出てしまうとユリスモールが主題となって登場できなくなる。
羽根を持つつまりは愛情を持つエーリクと羽根を失ったつまり人を愛する心を失ったユリスモールが「死んでしまったトーマ」という天使を仲介にして改めて愛情を構築していく、という過程がトーマが存在するとできないのだ。
なので無論本作ではユリスモールは存在せずフリーデルとなる。
『11月のギムナジウム』は『トーマの心臓』の短縮版ではなくもう一つの世界なのである。
つまり本作でもフリーデルがユリスモールと同じ苦悩をしていたのにエーリクにまったく構われることができなかった、と考えると辛い。
トーマは存在してはいけない砂糖菓子なのだ。
と書くとトーマがかわいそうだ。
結局死ぬしかないトーマ。
実の兄弟だということを察したトーマ。大笑いすることでそのショックを消す。
なぜならエーリクは本当の母親に愛されて育ったのだから。
その愛を欲したトーマはエーリクに扮して母に会いに行く。
そして死んでしまうのだ。
『トーマの心臓』にしても本作『11月のギムナジウム』にしても萩尾氏のラストはあっさり簡潔だ。
トーマが死んでもユーリが去っても残された者は今まで通り生きていかねばならないのだ。
その強さが私は好きなのだ。
こちらのエーリクはトーマの部屋を見たのだろうな。