1980年「プチフラワー」春の号・創刊号
こちらは『トーマの心臓』の前の話。
シュロッター・ベッツに来る前の彼がどんな状況だったのかは『トーマの心臓』一巻で校長先生の記憶で語られています。
確か萩尾氏は映画『砂の器』を観て疎外される父と子の旅をオスカーとグスタフに重ねて構想したと言われていてとても心を打たれました。
それ以来『砂の器』を見るとオスカーを『トーマの心臓』を読むと『砂の器』を思い出してしまいます。
ネタバレします。
『トーマの心臓』のオスカーは誰よりも大人びてカッコいい。多くの人がそうであるように私もオスカーが好きだった。
しかしよく読めば考えればオスカーはまだほんの子ども(15歳かな)のわりにあまりに気をまわしすぎている。
それが何故なのか、の理由が本作『訪問者』にある。
オスカーの父親は父親ではなかった。
それでもオスカーは父グスタフが好きだった。
というより子どもの本能としてグスタフがいなくなれば子どもとして存在できなくなるからだ。
母親ヘラは美しいがいつもキリキリと苛立っている。それはグスタフが金を稼ぐ能力がなく自分が働かなくては生活できないからだ。
オスカーはそんな両親を愛し「上手くやっている家族」だと信じ込もうとしている。
同じことをシュロッターベッツでもやっていてうまくいかないユーリやエーリクやその他の生徒たちをまとめようと絶えず気をまわしているのだ。
しあわせな家庭の子はそんなことはしない。
読者の女の子たちはそんなオスカーを見て「理想の彼氏」だと胸をときめかしていたのである。
かわいそうな性格なのだけど。
グスタフにしても息子だと思い込もうとしていたオスカーをヘラによって真実を告げられ自暴自棄のままオスカーと旅をしながら苦しみ続ける。
その旅の途中で何度もグスタフは姿を消すが愛犬シュミットがいる間は必ず戻ってきた。
そのシュミットが死んだ時もう何もグスタフが帰ってくる理由がなくなったとオスカーは悟る。
それでもオスカーはグスタフを追いかけて「ほんとうに戻ってくるね?」と叫ぶのだ。
こどもはひとりではいきていけない。
オスカーの子供時代は満たされないまま終わった。
シュロッターベッツに到着し実の父親であるミュラー校長に迎えられユリスモールと最初の言葉を交わす。
それまで泣かなかったオスカーがここでふいに泣き出してしまったのはなぜなのだろう。
まだ幼いユーリは後のような冷たさはなく思いやりのある言葉でオスカーを受け入れる。
「それは遠くだねえ」
ユリスモールの前で泣いてしまったことがオスカーの予感だったのかもしれない。
タイトルの『訪問者』というのはオスカー自身のことだった。