ガエル記

散策

『昭和天皇物語』能條 純一 その14

この点目の陛下が大好きです。

右の方が鈴木貫太郎さん。

 

ネタバレします。

 

安藤輝三が歩3に帰ると村中孝次が来ており「眞崎甚三郎閣下が教育総監を更迭された」と知らせた。「これは間違いなく永田鉄山軍務局長を中心よして統制派による我ら皇道派弾圧の陰謀だ」そして安藤らに「怒れ怒れ」とけしかけてきた。

「永田率いる統制派は君側の奸と結託し日本を破滅に追いやっていく。安藤。きみはそれでいいのかーっ」

 

昭和10年7月18日、相澤三郎は汽車で東京駅に到着した。

陸軍省を訪れ昔のよしみで大臣秘書官室に在籍する有末に「永田鉄山に会えるよう」頼んだ。

 

葉山で静養中の裕仁を鈴木は訪問し(それが上の画)〝歩3”の中隊長から「軍人が政権を独占するのは是か非か」と問われたと伝える。

裕仁は「青年将校は今の政治に大いなる不満を持っているということだな」と返した。

 

7月19日、陸軍省にて

相澤三郎は永田軍務局長室を訪ねる。

相澤は永田鉄山に対し「閣下に至っては自決をされたらよろしいかと」と告げる。

しかし永田に「私は私で誠心誠意やってるつもりだ」と言われなにもできぬまま退出。その足で眞崎閣下の家へ行くが「お引き取りを」と言われてしまいそのまま41聯隊に帰るしかなかった。

 

しかし一か月後。侍従武官長の本庄繁が葉山を訪れ永田軍務局長が相澤によって斬殺されたと陛下に報告した。

相澤は「私は永田鉄山を殺してなどいない。伊勢神宮の大神が私の身体を借りて永田鉄山なる俗物を殺したと存じます」と話した。

相澤を促したともいえる眞崎甚三郎はその報を受け「相澤・・・相澤?思い出したら連絡する」と知らぬふりをした。

 

安藤はまたも農村出身の兵士から「早く戦地へ行って戦死してくれと催促の手紙が来ました」という話を聞く。

元陸軍一等主計の磯部浅一から「決起の決意はついたのか」と催促される。安藤の考えは「時期尚早」だったが「安藤よ、この腐りきって日本を正すんだ。日本改造だ!」という言葉を聞き心が動く。

 

安藤は兵士に自分の給料から金を工面した。

そして「私はやはり今の日本を変えたい。私たちの手で日本を破滅から救いたい」そして思った。「私の理想を聞いてあの方は何というだろうか」

 

秩父宮雍仁は参謀本部を離れ青森県弘前第8師団第31聯隊へ大隊長として赴任することになった。

また牧野内大臣が辞職を申し出た。

太后は「ならんぞ」と言ったが8回も殺されかけた牧野は「せめてゆっくり眠りたい」とこぼし皇太后が涙を流して謝ったのを見て慌てる。

 

昭和11年(1936年)1月、安藤輝三は鈴木侍従長の襲撃を決意する。

 

海軍省では東京憲兵隊長の坂本俊馬が海軍次官長谷川中将を訪ねていた。

極秘事項と前置きして「近日中に陸軍皇道派の革新青年将校たちがひと騒動起こす」と報せた。

眞崎は荒木貞夫に「磯部から金の調達を頼まれた。あやつらとうとうやる気だぞ。昭和維新を」と告げる。

更に眞崎は「荒木さん、青年将校たちの決起を利用して我々が政権を握ろうじゃないか。事件が起こった後、すぐさま参内しよう。陛下に青年将校たちの行動を認めるという〝詔勅”をいただくのだ」

驚いている荒木に「天皇詔勅を出したら新しい内閣を造る。軍事政権だ。首相はこの眞崎、もしくはあんただ。いよいよわしらの念願だった天皇親政の始まりだぞ」

 

軍事政権。容易く口にしているが果たしてこの眞崎・荒木という軍人たちが政治をどう考えていたのか、国を治めるということがどういうことなのか、明確な展望があったとはとても思えない。

あまりにも子供じみている。

 

昭和11年2月25日午後4時15分

歩兵第3聯隊第6中隊長安藤輝三は「明け、早朝を期し顕官、重臣を襲撃し以て国民の暗雲を一掃せんとす」と皆の前で発言。「我が第6中隊は鈴木貫太郎侍従長を襲撃する。攻撃開始は早朝5時」

そして二分間目をつむるので立ち去りたいものは静かに席を外し部屋を出てほしい、とした。

しかし兵士たちは「どこまでもお供させてください」とその場に残ったのである。

 

眞崎甚三郎宅では荒木・山下が集まり「いよいよ明日早朝に始まるらしい」「すぐさま青年将校たちの行動を正当化する告示がが必要だ」と話し合う。

眞崎は山下に「青年将校たちの行動を正当化する大臣告示を用意できんか。ひいては我々皇道派の為、御国の為だ」と頼む。

その頃、鈴木貫太郎は妻のタカを連れて斎藤実内大臣就任の祝宴を開いてくれたジョセフ・グルー大使の駐日米国大使館を訪れていた。

グルー氏は皆をミュージカル映画鑑賞に誘う。皆はトーキー映画を楽しんだ。

帰途についた鈴木夫妻。タカは貫太郎が浮かない表情をしていると気づく。

貫太郎は「外が陰気でどよーんと紗がかかったような」という。

雪の降る夜だった。

東京は昨日から降り出した雪が止まず30年ぶりの大雪となっていた。

 

歩兵第3聯隊。午後8時40分。

「今から7時間後、午前3時半を以て出発する。侍従長官邸へ」

 

青森県弘前市歩兵31聯隊では大隊長秩父宮に兵士が話しかけていた。

「東京は30年ぶりの大雪だそうです。弘前とさほど変わらない風景だと」

雍仁はうすうすわかっていた。

このまま東京から〝緊急電話”が鳴らないことを祈っていた。

めずらしく絵を挟む。

この場面は何度も観た気がする。

 

昭和11年2月26日午前3時0分。

近衛歩兵第1聯隊曹長室。

陸軍歩兵中尉丹生誠忠は決起文を読み上げた。

「我が中隊は昭和維新断行の為、その先遣部隊となり今日これから直ちに出動する。襲撃目標は陸軍省ならびに陸相官邸」

 

そして安藤輝三第3聯隊は鈴木貫太郎侍従長を襲撃せんと歩き出す。

 

宮城、午前5時45分

侍従、甘露寺受長は着替え途中で鳴り出した受話器を取る。

鈴木貫太郎の家内でございます。主人が暴漢に軍人に撃たれました」

急いで陛下に伝えようとしたところに再び電話が鳴り今度は斎藤実内大臣が襲撃されたと聞く。

 

警視庁が青年将校に占領される。首相官邸も占領。

裕仁も着替えをしてこの事態を知る。

 

午前7時10分、侍従武官長本庄繁から鈴木貫太郎が病院へ行き手術を受けていると聞く。

病院の手術室の前に座っていたタカは看護師から「奥様に電話が」と告げられる。

受話器を取るとその声は裕仁であった。

タカの無事を知り安堵していた。

「タカ、貫太郎は死なない。死んでたまるか」

 

午前7時、弘前市秩父宮親王妃勢津子は高松宮宣仁からの電話を受け取った。

雍仁は代わってその知らせを聞いた。

 

陸軍省では眞崎甚三郎が青年将校たちをねぎらっていた。

「とうとうやったか。おまえたちの気持ちはよぉーくわかっとる。よぉーくわかっとるぞ」

陸相官邸では川島陸軍大臣陸相室にこもり出ようとしなかった。

 

7時10分、裕仁は侍従武官長本庄に対し「おまえは以前このような事件が起こるかもしれないと言ったそうだな」と問い詰めていた。

「本庄、知っていたのか。今日未明青年将校たちが直接行動に移すことを」

本庄は「し、知りませんでした」と答えた。

 

弘前郊外にて

雍仁は再び高松宮から電話があったと知らされる。

そして「東京で兄宮が孤立に瀕しています。直ちにご上京を」と。

 

午前10時15分

宮城、海軍軍令部伏見宮博恭王裕仁に「早急に強力な新内閣の組閣に着手して新首相には右派の平沼騏一郎を」と伝えていた。

裕仁伏見宮に「ここに来る前にあの黒い陸軍大将と会って話したりはしていないだろうな」と問うた。そして「海軍の青年士官は決起部隊に合流することはないのか」と尋ねる。

伏見宮は「それは断じてありません」と答えた。

 

午前11時13分

陸軍大臣川島義之参内。(ってことは懐柔されたか)

行動を起こした青年将校たちの決起趣意書を読み上げた。そして陛下に青年将校たちの純粋な国を想う真心を察していただき強力な内閣を、と申し上げる。

裕仁は「陸軍大臣はそういうことまで言わなくてもよい。それより暴徒を反乱軍を鎮圧することが先決ではないのか」と返した。

 

2月27日午前0時22分。弘前駅

秩父宮は東京へと向かう。

この時の雍仁の胸の内は神のみぞ知る。

 

山王ホテルの前で安藤輝三は「オレはやった。オレたちはやったんだ」と感慨にふけっていた。「農村漁村の窮状に対する憂国の念、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家に改造する、これこそ昭和維新だ」

俺たちはやった・・・これで日本は変わる・・・日本は本当に変わる・・・のか?

 

昭和11年2月26日午後2時軍事参議間会議。

軍事調査部長山下奉文は「大臣告示」の起案文を読み上げていた。

文章の細かい部分であれこれと配慮の添削がなされた。

しかし山本奉文は青年将校たちの前で配慮による添削を無視して「大臣告示」元の文章を読み上げる。

とはいえ青年将校たちの気持ちは「我々の行動は我々の趣旨は天皇の耳に達せられたのですね?それは確かなのですね?」というものだった。「陛下はなんと仰っているのでしょうか。私たちのところへはなにも伝わってこない」

山下は「今が正念場だ。天の声をじっと待つのだ」と告げる。

栗原は「待てません。今後の事はすべて天皇のご意志にかかっていると。陛下の御意志は?山下少将、お答えください」と急かした。

 

しかし天皇裕仁の考えは「鎮圧だ」であった。

「一刻も早く事態を収拾するのだ」と宮内大臣湯浅倉平に命じた。

その日天皇裕仁は一睡もしなかった。

 

青年将校たちと天皇の気持ちの齟齬が甚だしい。

青年たちはどうして天皇が自分たちに共感してくれると信じ切っていたのだろうか。

自分たちが仲間を愛するように天皇もまた周囲の人々を愛するのではないかとか考えてもいない、不思議さ。

そういうものなのか。

 

しかし私はこの226事件に物凄く興味を持っている。