ガエル記

散策

『昭和天皇物語』能條 純一 その15

おかわいそうです。

 

ネタバレします。

 

 

2月27日午前3時50分戒厳令公布。

満洲国を創った石原莞爾が急遽戒厳司令部の責任者に任命される。

まずは天皇陛下に奉勅命令を出していただく。反乱部隊は直ちに原隊に戻れの奉勅命令だ。

午前8時45分。杉山元参謀次長参内。

石原莞爾の言葉を伝えるがそれに杉山は「しかし当面は皇軍相撃ちを避けたいと思いますのでこの命令の交付の時間についてはもうしばし後に」と付け加えた。

これに裕仁は尋ねる。

秩父宮は今、どこにいる」

 

「226事件」

今まで私は青年将校らの革命と思っていたのだけど兄弟間の争いの事実があり得たのかもしれない。

安藤君が言っていた「秩父宮天皇としての親政が理想」という現実があったのかもしれない。

赤坂料亭・幸楽前に安藤隊がいた。

首相官邸の栗原中尉から安藤へ電話がかかってくる。

秩父宮殿下が東京に向かっている」というものだった。

安藤は檄を飛ばしていた兵士と代わり集まっていた人々に話し始める。

「皆さん、私の話を聞いてください。我々歩兵第3聯隊第6中隊はかつて秩父宮殿下が中隊長をされていて由緒ある名誉ある中隊です。秩父宮殿下は日々嘆いていました。農村漁村の疲弊を。我が娘を身売りに出すしかできない現状。そして巨大資本を利用して財閥だけが肥えていく。だから我々は立ち上がったのです。秩父宮殿下もおわかり頂けると私は信じています。殿下も陛下も」

 

が、天皇裕仁青年将校に同調を見せる侍従武官長本庄繁に不快を示していた。

「本庄、おまえはどうしても決起将校のその精神を認めてほしいというのだな」

「彼らの精神に於いては」と天皇を説得する本庄の言を封じ裕仁は続けた。

「朕が股肱の老臣を殺戮しかくのごとき凶暴な将校などその精神に於いてもなんの恕すべきものありや」

本庄はなおも「老臣を殺傷するというのはもとより最悪の事ではありますがその真情はこうすることが国家の為と思ってのことだったのではないでしょうか」

「本庄、それは私利私欲の為ではないというにすぎないではないか」と裕仁は答え「陸軍中央は何故反乱部隊の鎮圧に動かない。このままの常置ならば朕が近衛師団を率いて討伐に向かう」

本庄はついに「陛下、それには及びません」というしかなかった。

 

2月27日午後1時17分

宮内大臣湯浅倉平は裕仁に岡田首相が生きていたと報告する。

将校たちに殺されたのは義弟の松尾大佐だった。身代わりとなって自ら岡田首相と名乗ったのだ。

とはいえ岡田本人はまだ官邸の中にいるという。将校らに見つかれば殺されるのは必至。秘書官と憲兵軍曹とで岡田首相を脱出させるよう試みるのだという。

首相官邸には12名の弔問客が入っていった。

同時に裏玄関から石原莞爾が入り込んできた。「栗原、何が維新だ。陛下の兵隊を勝手に動かして維新もクソもあるか。今すぐ原隊に戻れ、それを言いに来た」

「石原大佐、常々あなたに聞こうと思っていた。あなたはいったい統制派ですか、それとも我々と同じ皇道派か」

「オレは満洲派だ」

そこへ弔問客らが帰ろうとして出てきた。

岡田首相の死体を見て気分が悪くなったのだという老人を支えながら出ていった。

そして石原はなおも「こんな馬鹿げたことはやめろ」と言いながら出ていったのである。

 

裕仁は「岡田首相が脱出に成功」と聞いて安堵した。さらにあの満州事変の張本人である石原莞爾がこの脱出劇に協力したと聞いて「実にまっとうな精神を持ち合わせている。まこと、おかしな男だ」と評した。

 

午後4時59分上野駅秩父宮が到着した。

反乱部隊の鎮圧はまだ終えていない。

裕仁は謁見の場を離れ階上へ行こうとしていた。

そこへ「陛下」と声をかける者がいた。

秩父宮か」

「はい」

「何しに来た」

「もちろん陛下をお助けする為に」

 

その後雍仁は母・皇太后の邸へ赴く。

母は雍仁を迎え入れ言った。「悪い夢を見た。お前が馬に乗り反乱部隊の先頭に立って走っている夢だ」

「なぜそんな夢を」

太后は女官が料亭幸楽の前を通りあの安藤の演説を聞いたと話す。

雍仁は「確かに彼らの国を想う心は純粋です。しか彼らは人を殺しました。到底、許されるものではない」

 

陸相官邸では青年将校らが眞崎甚三郎を問い詰めていた。

「我々には陛下のお声が聞こえない。眞崎閣下、お答えください。陛下は何と」

将校たちは眞崎に事態の収拾を願っていた。陛下に上奏をしてほしいと。

眞崎は「今は君らが聯隊趙の言う事を聞かねば何の処置もできんのだ」

なんとも要領の得ない回答に「いずれにしてもだ、奉勅命令が下達されればおまえたちは逆賊になってしまう」

 

奉勅命令?我々の行動は「大臣告示」で認められたではないですか。

我々が戒厳司令部の命令に従わなければ逆賊。逆賊となれば「皇軍相撃」でないから我々を容赦なく討伐する。

天皇陛下の為に決起した我々をなぜ鎮圧するのか。なぜ討伐するのですか。

 

2月28日、午前6時歩兵大尉山口一太郎(本庄繁の娘婿、決起将校の理解者)は将校たちに告げた。

「万策尽きた。微力及ばず。あと数分で〝青年将校は速やかに原隊に撤退せよ”の奉勅命令が下る。無念だ」

 

本庄繁は天皇に「川島陸相、山下少将は決起将校らには自刃せよと促す。ついては陛下からは勅使を、死出の光栄を与えるという使者を賜りたいと」

天皇の返事は「自死するなら勝手にするがいい。かくの如きものに勅使など。私が送り遣わす使者などもってのほか。私の願いはただ一つ、直ちに鎮圧するよう厳達せよ」

秩父宮は陸軍大尉森田利八から斎藤誠内大臣の凄惨な殺され方を聞き「将校たちに自決せよ」と伝えさせた。

 

2月29日朝、冷たい雨が降っていた。

「奉勅命令が下達された。よって決起部隊は反乱軍となる。

午前5時までに攻撃準備の完了を済ますように鎮圧部隊に通達せよ」

安藤隊が赤坂表町方面に出動した。

秩父宮邸がある。

安藤は秩父宮邸前で全員を整列させ敬礼をした。

秩父宮は姿を見せなかった。

 

秩父宮の思いは「私は天皇家の人間だ」であった。

 

冷たい雨が安藤の涙となって零れ落ちた。

 

結局、そういうことなのだ。

安藤の夢は夢でしかなかった。

秩父宮と共鳴していると思いながら共鳴などしてはいなかったのだ。

 

 

「兵に告ぐ」のラジオ放送、飛行機からのビラの散布、これらが功を奏した模様であった。

反乱部隊の下士官兵は続々と原隊に戻っていった。

なお、反乱部隊の首謀者格、野中四郎は自決。同じく安藤輝三も自決を。

しかし安藤は死ななかった。

渋谷にある陸軍衛戍刑務所に入所し「大臣告示は軍上層部が書いたものだった」と書き記した。

そして昭和11年7月12日午前他の反乱将校らとともに死刑となった。

 

岡田内閣は総辞職。次期内閣総理大臣廣田弘毅となった。

陸軍大臣は寺内寿一。

天皇は「まずは軍内部の粛清だ」と伝えた。

参謀本部作戦課長の石原莞爾は眞崎大将筆頭に7人の大将を全員首市にて予備役に編入し陸軍内の影響力を削ぎ落した。

 

昭和12年1月21日第70回帝国議会(新議事堂最初の議会)

立憲政友会衆議院議員濱田國松は「そもそも軍人は政治に関わってはならない」とした。

しかしこの発言に軍人を侮辱するものがあったと陸軍大臣寺内寿一は発言。

しかし濱田議員は「私の演説の中のどこに軍人侮辱の言があったか。もしあったらわたしは割腹して君に謝る。ただしなかったら君が腹を切れ」と言い返す。

寺内は濱田の発言に怒り衆議院の解散を要求した。

廣田総理は解散を主張する寺内陸相が辞表を提出したと陛下に伝え廣田は内閣総辞職を告げた。

 

西園寺公望はこれらの報告を受け次の首相に宇垣一成を推した。

宇垣は伊豆の別荘にいた。

予備役海軍大将侍従長の百武三郎から電話がかかってきた。

「大事な話があります。どんなに遅くなってもかまわない、今から来てほしいと陛下が仰っています」

宇垣はすぐに向かうが六郷橋憲兵に止められてしまう。

陸相まで一緒に出向いていただきたいというのだ。

しかし宇垣は「わしは天皇陛下の命で参内するのだ。退かぬなら天皇陛下に反逆したとみなすぞ」

 

昭和12年1月25日、午後1時、天皇はまだ宇垣を待っていた。

「陛下もうしばしのお待ちを」百武三郎が声をかけた。