ネタバレします。
昭和4年9月
皇后、内親王(女子)出産。
元・宮内大臣田中光顕が側室候補の写真を携えて宮内省を訪れる。
雍仁、節子(あれ、勢津子になってないのね)をつれて参内。節子妃は流産をして髪を切っていた。
(出産が女性を苦しめる世界はおぞましい)
ロンドン軍縮会議では若槻礼次郎を首席全権として軍縮で軍事費削減を望んでいた。
裕仁もまた軍縮条約の締結を望んでいたが雍仁は陸軍に所属する者として軍事費の削減を案じて兄に考え直してほしいと伝えにきたのであった。
しかしライオン宰相と呼ばれた濱口総理は官吏すなわち国家公務員の給料を一割削減し軍縮条約をまとめると天皇に約束した。
軍縮会議では巡洋艦や駆逐艦など、米英の「10」に対し日本海軍は7割の保有の堅持を望んでいた。しかし討議の内容は69・75%という数字をめぐって揉めていた。
日本政府としてはこれ以上粘っても討議が決裂するとして調印の方向で進んでいるが海軍軍令部が承服できないとしていたのだ。
濱口総理は天皇に謁見し調印の承諾を得る。
これに怒ったのは海軍軍令部加藤寛治である。
参内して直談判すると息巻く。
侍従長の鈴木貫太郎は数か月前までは海軍の人間だった。駆け込んできた加藤寛治に「陛下に直接上奏しないほうがよい。陛下は大変お忙しい。明日も明後日もお忙しい。お引き取りを、加藤軍令部長」と断言した。
数日後帝国議会で野党・立憲政友会総裁、犬養毅が濱口総理が軍縮条約に調印したことに異議を唱える。
これは陛下がお持ちの統帥権、つまり軍隊の指揮権の下に陛下を補佐する軍令部が持っているものである、とし、その承認なくして勝手に濱口総理が決めたのは大間違い。
「したがって今回ロンドン軍縮条約において与党政府の執った行動はまさに統帥権干犯である」
この言葉、何故犬養毅が言ったのか、まったくわからないのだけど?新しい言葉を言いたかっただけなのか。濱口総理に反感を持っていたのか。
この言葉を使ったことで軍部に強力な権限を与えてしまったのは犬養毅が望むことだったのか。
この話を聞いた皇太后は裕仁に会いに行く。鈴木貫太郎は居場所を口留めされていたが皇太后は知っていた。
何の予定もないこの日、裕仁はひとり、離れの小部屋で顕微鏡を覗き込んでいた。
昭和5年(1930年)6月18日ロンドン海軍軍縮会議全権団帰国
東京駅には10万人もの人々が国旗を振って出迎えた。
しかし軍縮を独断で決めた政府には強い風当たりもあった。
枢密院会議で顧問官が「統帥権干犯」について濱口総理に問いただす予定となっていた。
裕仁が持つ〝統帥権”の手前、軍の問題には首相と言えども口出しできない。口出ししたら裕仁を軽んじたと、すなわち統帥権の干犯になる。
「この魔法の杖、いったいだれが発案した?」と皇太后は牧野に問うた。
天才哲学者北一輝が政友会の犬養毅らに「統帥権干犯」を吹き込んだ。
それにまた海軍の強硬派が飛びついた。
昭和5年11月4日、陸軍大演習。
陸軍中尉安藤輝三、25歳。ひとりの兵士が「自分たちはいつ戦地に赴くのでしょうか」と問う。
「おまそんなに早く死にたいか」と返す安藤中尉に「はい、早く戦地に行って死にたいと存じます」と答える。
「バカタレが!理由を言え」というと「田舎の父から手紙が来て早く戦地に行って死んでくれ。そうすれば国から弔慰金が支給される、と」と言う。
田舎の田んぼの土は枯れ果てて妹は身売りに出されました。私も早く死んで親孝行がしたいと存じます」
安藤は無言だった。
ここで陸軍大佐永田鉄山が陛下に伝える。
「濱口総理が東京駅ホームで狙撃された」
右翼青年に狙撃され重傷。奇跡的に一命はとりとめた。
濱口総理はその重傷癒えぬまま国会登壇。
良子は4人続けて女児を出産していた。
次女は夭折したが3人の尊い命を授かった、と裕仁は言い長宮の手を引いて生まれたばかりの娘のもとに帰った。
秩父宮邸では安藤と菅波が訪れ語り合っていた。
秩父宮は安藤から農村の窮状を知らされる。
菅波は「今こそ天皇による親政国家の確立を」と叫んだ。
ふたりは「この満州を日本画確実に領有することが肝要。だが現在交渉によっての事態の好転は至難。武力によっての打開を図らざるを得ない。義は我らにある」と話す。
永田は関東軍の暴走を止めなければ日本は泥沼の戦争に陥る、と考えた。
東京牛込納戸町。
歩兵第3聯隊菅波三郎は北一輝の家を訪れていた。
北は建白書を渡した。
内容は「君側の奸の不要」について書いたものだった。
北はその書類を安藤君に渡しそして秩父宮に献上してほしいと伝える。そして秩父宮から裕仁天皇に。
安藤は言われた通りその建白書を秩父宮に手渡した。
昭和6年(1931年)8月26日
「陛下。今こそ、我が日本国を天皇親政の国家に」と告げる。
「皇嗣として申し上げます。現在の日本は重臣・軍閥・政党・財閥など〝君側の奸”による異常な国家。私の知る将校たちは現在の日本のかたちに限界を感じております。今こそ明治維新の精神に還り必要とあれば憲法の停止もやむなしと存じます」
裕仁は弟、雍仁の言葉の矛盾を問う。「帝国憲法は明治大帝が創られたもの。天皇家の精神までも革新将校らに蝕まれたか」
板垣征四郎は「満州と内蒙古いわゆる満蒙は日本の生命線」と語っていた。
今、石原莞爾の計画「南満州鉄道線路を爆破し、中国軍の犯行と見せかけそれを口実に満蒙の占有を行う」を決行するか否か、と言う瀬戸際だった。
鉛筆を立て右に転んだら中止、左に転んだら決行、と言う板垣。その鉛筆は右に倒れる。「中止か」と言う板垣に石原は「私から見たら左だ」と返した。
「ここ奉天から爆破予定地の柳条湖まで7~8キロ、実に近いですな」
鈴木は裕仁に「満鉄の線路が爆破された模様」と知らせる。
旅順・関東軍司令部では司令官本庄繁に「直ちに張学良のいる北大営を攻撃すべし」という進言がなされていた。
昭和6年9月19日、陸軍大臣、南次郎は「本日未明、奉天北大営で関東軍と張学良軍が衝突」と天皇に報告。
「目下、我が関東軍は優勢に戦いを進めている状況であります」
天皇の命令は「不拡大方針」
しかし石原と板垣は中央の意向にそのまま従う気はない。
とはいえ関東軍は全力でも一万余。とても張学良軍を抑えきれない。
そこで朝鮮に駐在する日本兵の援軍をすでに頼んでいた。
目論みの奉天占領後のハルピン侵攻を中央は許さないだろう。
その時は隣の吉林省に進軍する、と考えていた。
朝鮮を守るはずの日本兵、「朝鮮軍」が越境して満洲へ、関東軍の独断で、という憤慨が裕仁の脳裏にあった。
「どうか御裁可賜りたく」という金谷参謀総長に裕仁は「ならんぞ」と言い放つ。