鈴木貫太郎氏とその妻タカ。
タカは昭和天皇の幼少期迪宮様と呼ばれた時期の御用掛だった女性で裕仁はずっと彼女を母のように思っていたと語っている。
ネタバレします。
4月の枢密院本会議に疲れる昭和天皇。
「永田の前に永田なく永田の後に永田なし」
永田は秩父宮に「もはや戦争は軍人だけのものにあらず。全国民が一丸となる総力戦となるもの」と訴える。
在米国日本大使館を訪れたのは皇太后の使者となった樺山愛輔だった。
娘同士が大親友ということで彼が選ばれたのである。
しかしその目的を聞いた松平恆雄は「普通の娘として育った節子にとって皇位継承第一位の雍仁殿下の妃になるのは荷が重すぎます」と固く辞退する。「ましてや節子の祖父はかつて朝廷に弓を引いた身」と答えた。
日本に戻った樺山伯爵はその旨を皇太后に伝える。皇太后は失望し「別の使者を立てましょう」と言い出す。
樺山伯爵は「今度こそ、必ず説得を」と答え切腹覚悟で再びアメリカへ渡った。
(いったいどのくらい日時がかかったんだろう。かわいそう)
しかし恆雄氏はここで娘を部屋に入れ「これ以上ご辞退申し上げるのは皇太后の御心に背くことになる。秩父宮との縁談をありがたくお受けするとしよう」と話す。
父の言葉を聞いた節子は「お父様、なぜ私なのですか。私はもっと米国の大学で学びたい。もっと友達と過ごしたい」と顔を覆う。
そこに声を上げた女性がいた。
「節子お嬢様」
いきなり割り込んできた老女に驚く樺山伯爵。「あなたは」
「私はお嬢様に仕えてきた会津生まれの高橋むつ子と申します」
「はあ」怪訝な顔。
しかしむつ子と名乗ったその女は「お嬢様、会津の人間はそんなヤワではありません、どんな環境に置かれてもその精神はびくともしません」と喚いた。「皆様、会津魂をしっかりお持ちです」
はい「銀のボンボニエール」情報。節子様(勢津子になりますが)ご自身の記録です。
この高橋むつ子さん、ご本人の名前はそのとおりなのですが「むつ」という字「睦」で明治天皇睦仁と同じで畏れ多いということから松平家ではずっと「たか」と呼ばれていているのです。
ところがここでも「たか」と呼ばれる女性が登場すると『昭和天皇物語』的にはややこしくなるので本名で登場してるのでしょう。
また樺山伯爵の説得模様もかなり違った印象です。
『ボンボニエール』では節子があんまり頑なに縁談を拒否し続けるので仕方なくこの「たか」に説得を頼むのです。
ここからのたかが節子お嬢さんを説得する様子は本作マンガよりもずっと感動的なのでこのエピソードに興味を持たれた方は是非読んでほしい、のですが肝心の『銀のボンボニエール』は絶版なので古書を探してみてください。
ところで節子の大親友で樺山伯爵の娘正子さん、というのは話題になった白洲次郎氏の妻になる女性です。『ボンボニ』には正子さんの記述もあってステキな女性であるのがわかります。
さて昭和天皇裕仁は新しい総理の田中が「軍の言いなり」と見えて牧野内大臣に「おまえからそのへんのこと注意したらどうか」とまで言っている。
昭和2年10月海軍特別大演習
鈴木は海軍軍令部長であった。
裕仁は「タカは元気でいるのか」と尋ね「あの頃は楽しかったなあ。タカは私の母親代わりだった」と続けた。
関東州に駐留する日本陸軍、関東軍がこの爆殺事件に関与している可能性がある、と裕仁に報じられた。
昭和3年11月10日
珍田捨己は裕仁に田中の印象を「豪放磊落に見えて実は繊細であっちこっちにも良い顔をして結局自分の首を絞めてしまう。そんな男に見えます」と伝える。
その田中義一は「総理大臣の名に懸け充分な調査をし万が一陸軍の手が伸びているとすればその者を厳罰に処するつもりでございます」と申し上げる。
昭和4年(1929年)1月17日東京巣鴨
侍従長の珍田捨己が死去したが生前に後継者として鈴木貫太郎を指名していたのである。
かつて東郷平八郎元帥は鈴木に「おまえは不死身だ。その生命力を裕仁親王に分けてほしい。侍従長になれ」と伝えていた。
そしてタカは「陛下のお側で陛下のお力になってください」と頼む。
昭和4年6月27日
田中義一総理上奏の為参内。
張作霖爆殺の首謀者は関東軍参謀の河本大作大佐。しかし関東軍だけの謀略ではなく陸軍省が後ろにいたのだった、ということを田中は口にするわけにはいかなかった。
それを明らかにすれば日本陸軍の名誉を傷つけることになる。すなわち日本の国辱となるのだ。
そして田中義一総理は「したがって日本陸軍は張作霖の爆殺に関して一切の関係はなく」と申し上げる。「とはいえ関東軍にも責任があり以て軽度の行政処分で済ませたい」
これを聞いた裕仁天皇は「半年前参内した時、おまえは事件の関係者は厳罰に処すと言っていた。日本に嘘をつく総理などいらない」
そして「田中、辞表を出したらどうか」と告げたのである。
元老西園寺公望はこのことを聞き「あってはならないこと」と言う。
二日後再び田中義一は参内した。
「それがお前の正義なのか。もうおまえと会うことはない。下がれ」
「君臨すれども統治せず」
三か月後、田中義一死去。
表向きは急性の狭心症。だが、その実は切腹だった、と本作は描いている。
裕仁はこれを聞き、「後悔の二文字だ。自分の意見を言ったばかりに内閣が崩壊し総理大臣が死んだ。これから朕は内閣や軍が一致して決めたことには一切余計な口出しはしない」とした。
この一件は非常にデリケートな問題である。
歴史を知っていればこの件が後々の心理にどう作用してくるのか、と考えてしまう。
本作がそこをどう描くのか。