ガエル記

散策

『史記』横山光輝 ④ 再読 第1話「先従隗始」

 

「まず隗より始めよ」

のお話です。

 

 

ネタバレします。

 

中国大陸は弱肉強食の戦国時代に突入した。

太公望を始祖とする斉も第二十九代康公で血筋が途絶え田氏が支配する田氏斉となった。

第五代目湣王の頃には新都天下を二分する強国となった。

 

この物語書き出していくのがややこしい。

まず燕の王がおぼっちゃま国王で「名君と呼ばれたい」という願望を持つことを利用されるのだ。燕は宰相の子之が政治力を持っていることで成り立っていた。

名誉欲の強い国王と権力欲の強い宰相、というところに目を付けた斉の湣王は蘇代を使い「燕の宰相の権力をもっとつよくなるよう運動いたせ」と命じたのである。

 

いったいこの蘇代は何者なのかと思って検索したら「縦横家」というものなのらしい。

つまり外交戦略家であり舌先三寸で国家間の政治を動かしていくのである。

蘇代は上手く燕王の機嫌を取る。

「我が主君ながら斉の王は臣下を信頼しない。それに引き換え燕王は宰相子之を深く信頼されているがため燕の政治はうまくいっているのです。こういうお方を名君と呼びます」

名君と呼ばれたい燕王はすっかり上機嫌となった。

蘇代は宰相・子之自身にも「国権を譲ってもらっては」と働きかける。

権力欲の強い子之は願ってもない。金に糸目はつけないと言って蘇代の案に乗ってきた。

蘇代は買収工作に動き出す。いずれ滅ぼすきでいるのだからどんな約束もできたのだ。

 

側近の進言もあってついに燕王は子之に国権を譲ってしまう。さらに王は子之が働きやすいようにと言って宮廷を引き払ったのである。

こうなると宰相は燕の国のすべての実権を握り諫めるものは処刑された。

怨嗟の声は国内に充満。

太子兵は将軍市被と子之打倒の計画を練った。

 

燕の政治は乱れに乱れた。

今こそ燕を滅ぼす時と斉王は太子平に密使を送り後押しすると伝えた。

何も知らない太子平は喜んだ。

だが斉からの援軍はすぐには来ず(当然だが)太子平は将軍市被と仲間割れしてその首を打つ。

燕の内乱は極限にきていた。

ここで斉は燕に入る。

援軍が来たと喜んだ太子平は城門を開けた。

斉軍は城門からなだれ込み燕王と宰相子之を殺し燕を斉の支配下に置いてしまったのである。

太子平は「斉に騙された」と悔しがった。

 

それから二年後、太子平はやっと国君になるのを許された。これが昭王である。

もちろん斉への忠誠を誓っての即位である。

だが太子平=昭王は「父の仇を討ちはらしたい」という気持ちを持ち続けていた。

そこで郭隗先生に「何とか優れた人材を集め国家を再興し父の恥をそそぎたい」と問いかけた。

郭隗の返事は「それならばまず隗、つまりこの私から始めなされませ」というものだった。

これが「先従隗始=まず隗より始めよ」である。

現在日本でこの言葉は「ことを成したいならまず自分から始めなさい」という意味になっているがもともとは「ことを成したいならまず近くにいる人から始めなさい」という意味だったのである。

昭王は側近である隗のために豪邸を建て師と仰いで優遇した。

これを聞けば優秀な人材が「我も」と集まってくるのだというわけである。

何故現在日本では中国故事が逆の意味になってしまいやすいのか「むむむ」である。

果たして各地から優れた人材が集まってきたのだが魏より来たのが楽毅だった。秀才で兵法にも精通した人物だった。

昭王は国の再建に力を注いだ。

農民と苦労を共にし人心の収攬に努めた。

 

斉はますます強大国となっていた。

昭王は即位して二十数年心の中に秘めていた思いがあった。父の仇を討つことである。だが昭王の努力で燕は豊かになったとはいえ斉との力の差は歴然だった。

楽毅は昭王の思いを理解し諸国と連合して斉を討つしかありませんと答える。

楽毅は昭王のために尽力していく。連合軍の総指揮を執り斉と戦った。

激戦が続いたがついに連合軍は斉軍を撃破した。諸侯の軍はここまでで引き上げたが楽毅率いる燕軍のみは斉の首都へ迫った。

斉の湣王は首都を捨て南方へ逃亡。楽毅は首都を落とした。

この報をきいた昭王は落涙し自ら楽毅のもとへ出向いてねぎらったのである。

昭王は楽毅に対し昌国に封じた。これは異例のことだった。

楽毅は深く感謝した。

 

この後も楽毅は斉の城を次々と落としあと二城というところで詰まってしまう。

田単という優れた将軍が守り抜いていたのだ。

しかもここで燕の昭王が急死。太子が即位し恵王となったがこの新王は遊び好きで楽毅とそりが合わなかった。

これを機に田単将軍は虚偽のうわさを流す。楽毅が謀反を起こし斉王になろうとしているというものだ。

楽毅を嫌っている恵王はこの噂を信じ楽毅を帰国させ誅殺しようと企んだ。

だが楽毅はすぐに恵王の策略に気づく。

楽毅は亡命を決意した。

 

楽毅がいなくなった燕軍はあっというまに反撃されすべての城を奪い返されてしまう。恵王の側近が「こんな時に趙に亡命した楽毅が恨みを晴らそうと攻めてきたらひとたまりもありませぬ」と進言。

恵王は自分の言い訳と亡命をなじる手紙を書いて送った。

「帰国を命じたのは休養をさせたかったためなのに楽毅将軍は誤解して燕を見捨て趙に亡命した。それでは昭王からの信頼に対してどう思われるのか」

 

これに楽毅は返事をした。

それには楽毅が先王・昭王への尊敬と忠義がこめられていた。

先王は私のようなものを過分にお取立てくださり私もその御恩に報いようと努力してまいりました。私の何よりの願いは先王の功績をたたえご偉業を明らかにすることです。讒言に負け罪に陥ることで先王の名を辱めることが私の最も恐れることでございます。嫌疑をかけられたことを口実に燕を討とうなどと義としてできぬことです。古の君子は人と絶交しても相手の悪口を言わず真の忠臣は国を去ってもその身の潔さを弁明しないものとまなんでおりまする。

 

恵王は自分が愚かだったと恥じ入った。