非常に変わった映画作品です。
いったいこの映画はなんなのでしょうか。
スタンリー・キューブリックのアイディアをスピルバーグが引き継いで作り上げた、という過程そのものが作品内容を分裂させてしまっっているのかもしれません。キューブリックの暗闇とスピルバーグの光が奇妙に混ざりこんでしまい奇天烈な相乗効果を生んでしまったのではないでしょうか。
だからといってつまらないわけでも駄作でもなくそれどころか心掻き毟られ涙はとめどなく流れ落ち恐怖に震えあがり時に美しいとも思うのです。
かなり前に何度か観てもう一度見直したいと思いながら機会がなくやっと今回観なおしたのですがイメージはそれほど変わってはいませんでした。同じように泣いてしまい同じように怖い映画でした。
作品の設定自体あちこちが崩壊していて理解しがたいものがあります。しかしその崩壊はもしかしたら在り得ることのようにも思えます。
病気になって目覚めない実の子の代わりに子供の姿をしたロボットを購入した若い夫婦。映画の経過速度が速いせいか最初乗り気だった夫が途中からロボットを嫌いだし「我が子の身代わりなどいない」と激怒していた妻がロボット少年に感情移入していくがそのわが子が目覚めロボット少年デイビッドが我が子に危害を加えたと恐れてデイビッドを捨てる。
実の息子マーティンをはじめ子供たちのデイビッドへの過酷ないじめ。
ロボットを憎み人間との違いを見せつけるために半壊したロボットたちを残酷に処刑するショーを楽しむ人間たち。
これらは将来現実にあることかもしれません。
それよりも違和感を覚えるのは「子供型ロボット」はデイビッドひとりだけ、こんな子供ロボットが存在するなんて!という根本的設定です。
アメリカではどうか判りませんが少なくとも日本ではむしろ子供型ロボットの方が最初から求められ普及しそうです。
そもそも日本でのロボットのイメージ自体がアトムという少年ロボットです。実際作られている者も可愛いロボットが多いように思えます。
大きな力仕事ではなく話し相手や家事手伝いには少年少女型くらいがちょうどいいですし小さくても実際の力は百万馬力でなくとも人間より強く足や腕が伸びるといった仕組みくらいはあるかもしれません。
そしてアトムも彼自体が息子の代替として作られたものでした。アトムもまた力だけでなく正義や愛の心を持つ者として設定されます。
また本作ではセックスロボットとして美男美女特にジュード・ロウ演じるジョーが活躍しますが、悲しいことですが日本でならセックスロボット自体がまず少女型ロボットになるのは必然です。デイビッドくらいの大きさの男児・女児もそうした目的で作られることは当たり前に想像できてしまいます。規制があったとしても需要と利益にはかなわないでしょう。
ところで腐女子であれば好みのイケメンロボットを二体購入しなければなりませんね。
まあとにかく本作はアメリカでは不人気だったようですが日本では大ヒットでした。子供型ロボットという設定が日本人にはたまらない要素であったのではないでしょうか。
こんなにも可愛くてこんなにも自分を愛してくれる子供型ロボットが近い将来できるかもしれない!という期待感はロリショタ前提の日本人にはバラ色の未来観だったのです。
賢いテディベアも日本人のツボでした。
お裁縫も得意です。
人類の滅亡期を描くディストピア映画です。
登場する人間たちは皆自分の事ばかり考えていて愛情は歪んでいると思えます。そんな中で一途にデイビッドだけが愛だけを求めています。
永遠の愛を設定されてしまったデイビッドはそれを遂行しなければなりませんでした。
その愛を全うする姿は私たちには狂気にすら見えてしまうのです。
ひたすら愛だけを求め続ける子供デイビッド、それは子供が生きるための単純なプログラムなのですが。
デイビッドを演じるハーレイ・オスメント君がほんとうにロボットに見える瞬間があちこちにあって驚かされます。
ほうれん草を食べて顔が歪む場面は何度も思い出してしまう怖さでした。
人間と精巧に作られたロボットとの差異はあるのでしょうか。
昔の物語ではその違いを語る時必ず言われるのが「人間には魂がある(ロボットには魂がない)」というものでした。
では「魂」というものは本当にあるのでしょうか。
人間は「人間には魂がある(からこそ特別な存在だ)」という概念を生み出しました。
だからこそ「愛」があるのだと。
しかし本作で「愛」があるのは「魂」のないデイビッドだけのように思えます。
その「愛」はプログラミングによるものです。
では魂もまたプログラミングできることなのでしょうか。