ガエル記

散策

『細雪』(1959年版)島耕二/原作:谷崎潤一郎

ネタバレします。

 

谷崎潤一郎の原作も幾つもの映画も触れてこなかった。

まったく、というのではない。ちらりと見てお金持ちのお嬢さんたちの恋愛話かと察してそれ以上踏み込まなかったという経緯だが今回「あえて苦手なかつての日本の物語を知る」修行で本作に対峙してみる。

 

まずは1959年版島耕二監督『細雪』を観る。

感動はしない。

だがこの原作を谷崎潤一郎が第二次世界大戦、太平洋戦争の始まる前から戦争中にかけて軍部から「戦時にそぐわない」とされながらも書き続け、出版はできないものの個人的に本にして周囲に配るなどしていた、というエピソードを読んで後に考えるとそのこと自体が大きな意味を持ってきてしまう。

物語は私的にはどうでもいいような話である。

富裕な美貌の四姉妹の人生が時代の移り変わりの中で変化せざるを得ない。

名のあった実家が没落しその家も取り壊され新しいビルディングが建設されてしまう。

上の姉二人はすでにやはり富裕な結婚をしているが一番美人とされた三番目の雪子は三十歳になっても貰い手が見つからず末娘は甲斐性無しのボンボンと遊んでいるかと思ったら貧乏人の男とできてしまう。

二番目の姉は特に末妹の妙子の行動が意味不明で心配でしかない。

姉妹の立派な両親はすでに亡くなっている。

この設定自体が変化していく時代そのままに映し鏡になっている。

つまり物語というよりまんま状況説明になっているようにさえ思えるのだけどそれもまた「戦争の苦しみの中に見出した光が失われていく様」と思えばやはり胸に来る。

「恐ろしい戦争などして人々を殺していくよりこの美しい姉妹を見ていましょうよ。他愛ないおしゃべりを聞いていましょうよ」と言われているのだ。

冒頭少しして二姉幸子がコンサートに行くために末妹に着替えの手伝いをさせている。

そこに三姉雪子が来て「帯がキューキュー鳴るのでコンサートでは気になるわ」と言い出す。

幸子が息をしてみると確かに帯が「キューキュー」鳴るのだ。仕方なく幸子は帯をあれこれと変えてみる。

どうでもいいようなこの話が本作の主旋律になっているように思われる。

キューキュー鳴るのは新しい良い帯をしているからなのだ。金持ちだからこその悩みである。それを姉妹同士で見つけ合い考えあい別の帯にすればと選ぶ余裕がある。

貧乏人なら帯はくたびれ果てて音もしない。和服も着ないしそもそもコンサートなんぞには行けない。

着替えを手伝ってもらうなど言語道断だ。そんな暇はない。

たぶん谷崎潤一郎は女たちのこうしたやり取りを見たり聞いたりしながらその艶やかさにうっとりしていたのだろう。

映画の中に谷崎は登場しないが彼は壁であり空気であり美しい女性たちの周りでその匂いを嗅いでいるのだ。

今どきそんな男は「キモッ」の一言で蹴り飛ばされるがこれもまた「戦時中」の谷崎のただ一つの光明であったと許してあげたい。

 

本作に出てくる男たちは皆しょうもない。

なので妙子を命懸けで救った男板倉だけが男らしさの象徴として掲げられるがその板倉はすぐに病気で死んでしまう。

まるで男らしくあることは許されないことであるかのようだ。

谷崎の中で男は美しい女の足元にひれ伏すだけの存在でなければならなかったのだろう。

(ここで谷崎が幸子のモデルとなった彼の三番目の妻の美しさを愛でるために堕胎させた酷い奴なのだが、という話を差し込もうと思ったのだが、wikiによればその話は谷崎自身が書いているものの別の随筆では「彼女の健康上の理由で医師に勧められたため」と否定しているらしく今の私には是非がわからない、と記しておく。私としてはそうであってほしい)



本作映画は特に控えめな美人で妹思いの古風な三女幸子と新時代を思わせる奔放でわがままな末妹妙子が対称的に描かれている。

が、今の価値観で見ると現代の若い女性はむしろ三女雪子なのではないかと思われる。

妙子の生き方はコスパが悪い。

現代はコスパ主義なのだ。

 

さて次に行こう。