ガエル記

散策

『日本遠国紀行』道民の人 その4

 

ネタバレします。

 

第5章 隠れキリシタンを訪ねて

───島原・天草巡礼記(長崎・熊本)

 

北海道の山中で暮らす男性が見せた”川から出てきた円い銅塊”は隠れキリシタンの”メダイ”だった。

隠れキリシタンといえば長崎が有名だが各地に散らばりさらに滅ぼされ道民氏の故郷である北海道でもその痕跡があるという。

一方今でも「カクレキリシタン」と呼ばれその風習を守っている人々がいる。

道民氏は子供時代に見せられた「カクレキリシタン」のメダイのつながりでなんとしても彼らに会ってみたいと実行する。

その場所は天草であり道民氏にとっては遠い場所であると何度も嘆くのだが私にとっては近場である。

まあ、行ったことはないが。

 

「島原の乱」これもまた稀なほどの過酷な歴史として名を残している。

だがそれ以降も信仰を続けた人々がいた。

「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々は幕末、明治の世を迎えもとのキリスト教(カトリック)と合流するがそうではない人たちもいた。

密かに信仰を続ける間に様々な変化が生じそのまま受け継がれていった教義を持つそれらの人々が今回の目的となる「カクレキリシタン」である。

彼らは独自の信仰を棄てることはできずカトリックにはならずそのまま「カクレキリシタン」としての教えを守り続けていくのだ。

道民氏はいずれ消え去ってしまうだろう彼らに会いにいったのである。

歴史というのは恐ろしい。

そもそも弾圧されることがなければ彼らはこの奇妙に変化してしまった宗教を受け継ぐことはなかったかもしれない。

とはいえ隠れていなくともキリスト教自体でさえも(というか様々な各宗教も)それぞれの新しい宗派を生み出しているのだからそうなったかもしれない。

また現在宗教の自由があっても日本という国の中でキリスト教は結局多数派にはならなかったのだから弾圧する必要もなかったかもしれないのだ。

まあどれもその時どうなったのかの「たられば」はわからない。

それでも厳しい弾圧以降密やかな信仰を続けて独自の形態を作り上げてしまった「カクレキリシタン」という人々が存在するのは歴史的事実なのである。

そしてその歴史は閉じて行こうとしている。

「閉じて行こうとする人々」にシンパシーを持つ道民氏である。

「幸木飾りの風習だけでも残ってほしい」という思いを受け継ぐ人たちがいる。

 

第6章 祇園坊主の里

───中世を垣間見る奥三河の祭礼たち(愛知)

思いがけずこの章に惹かれた。

というかまったく知らなかったのでこの「奥三河」という言葉や「ブニヨド」「ブニュウド」「不入土」と呼ばれる中世日本の荘園という説明に引き込まれた。

荘園といえば『山椒大夫』の物語を思い出してしまう。確かにあの物語はブニヨドの物語であったはずだ。

本作には(たぶん)この物語については言及されていなかったが思えば古来から日本の中心部はこの辺りである。

むろん物語はどの場所にも生まれ出でるものではあるがこの場所には多くの出来事があったはずだ。

日本は海に囲まれた国だが山岳国でもある。

この辺りの物語をもっと知りたいと思う。

 

 

第7章 紀伊山地と十津川村

───この世界に果て無し(奈良)

ここに書かれている

「我々がイメージする奈良県の地図と実際の奈良県の地図にはおそらく相当の誤差がある」

というのを読んで驚いた。

すぐにグーグルマップで確かめてみる。

道民氏が言う通り私もまったく勘違いしていた。

そもそも奈良県の位置を間違えていた(もっと北と考えていた)し、こんなに山深い県だと思っていなかった。

いやいやまさに日本は山岳国なのだ。

その山深い中に十津川村という広大な村があるのだ。

 

道民氏は十津川村をも訪れそこで司馬遼太郎氏がかつてこの地に現れ取材し『街道をゆく』に記述したという。

そこには「その村が御赦免所とされた」と書かれているらしい。

私も気になる。後に読んでみよう。

 

道民氏は神湯荘に宿泊し朝食に温泉水で炊いた白ご飯が出たという。

そして女将から「朝のうちに果無(はてなし)に行ってみてください」と勧められる。

果無は十津川で最も有名な山の集落であるらしい。

「果無」という名前の由来は「はるか遠くまで続く山脈を見渡すその景色がまるで果てがないかのようだから」というのが第一の説と書かれ道民氏はひと目で信用したと書いている。

──この世界に果て無し 

道民氏の感動が伝わる。

そしてそこで見た景色が本書の最後の写真として飾られる。

山頂の小さな水田で田植えをしている男性の姿である。遠くの山々が彼を見つめているようだ。

 

あとがきがあり本書は終わる。

 

有意義な読書であった。

正直に言うと道民の人さんが思われているようには私自身には消えゆく世界に思い入れがない。

人間は生き延びていくべきであり生き延びるためになら他の場所に移るのに躊躇そして後悔など必要ないとしか考えられない。

ただ最初に書いたようにそれは私自身が幼い頃に「故郷が失われてしまう悲しみ」を体験しなかったからかもしれない。この場合の想像力に私は欠けている。

さらに言えば私が団地育ちで土地に思い入れがないからかもしれない。

団地にはもどりたくない。

が、将来団地に住むしかなくなれば文句なく住む。

場所はどこでもいいのだ。住みやすいなら。

 

考えれば私のようなのが大多数なので過疎化していくのである。

 

ではなぜ本著を読んだのかと言えばそうではあるが「消えゆく世界」への憧憬があるからだ。

自分自身の悲しみがないので単純に憧れてしまうのだろうか。

未来、地球を旅立つ時が来て他の星に住むことになれば・・・地球を懐かしむ、だろうか。

 

とはいえ『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んでいると(映画は未鑑賞)そうでもないようにも思える。