ネタバレします。
「くろいひつじ」
「月刊フラワーズ」2007年1月号
「黒い羊」が「身勝手によって要望や期待から逸脱していることを暗喩する、否定的な意味を持っている」という意味だとは知らずにこの年齢になってしまった。
そうだったのか。
本作では音楽が大好きな一家においてただひとり音楽が苦手でそれゆえに嫌いな男が描かれる。
普通、というか少なくとも萩尾望都的には絶対にこれまでこの役は小さな少年か少女のもので会ったのにここでは「オヤジ」と呼ばれる年配男がそれになる。
冒頭で兄が母のピアノを焼いた、という不穏な情報が呈される。「ピアノを焼く」この恐ろしい行動は特に音楽を愛する人には許されざる暴挙なのではないだろうか。
「兄」というのが上に書いた「オヤジ」である。
一周忌の法要で集まった人々。
人々は口々に一年前に亡くなった母・絹ばあちゃんのピアノにあわせてみんなで歌ったこと、絹ばあちゃんの声がきれいだったことを讃えあう。ここだけ見るしんみりと音楽一家の美しい思い出の物語なのだがここに割って入るのが「長男」であり「オヤジ」の「イタ兄」=伊太郎である。
弟が「自分も絶対音感がある」といえば「音楽家でもないのに役にたたない」とあざけりピアノの発表会で姪孫がピンクのドレスを着ると言えば「女の子は服を着たいんだな」と嘲笑う。
しかし親戚一同はそんな伊太郎の言葉など無視して子どもたちが音感が良いのは絹ばあちゃんの遺伝だと喜び合う。
そして「ピアノがあったらよかったのに」という言葉を励ますように「歌おうか」「おばあちゃんの好きな歌」「ハモニカがあるよ」と盛り上がる。
ここで伊太郎はすっと立ち上がる。
「オイ伊太郎兄さんも歌おうよ」という誘いを尻目に無言で外へ出る。
邪魔な枝を見つけ「ナタを持ってくるか」と納屋へ行く。
つぎの瞬間伊太郎は歌い笑い合う一同の集う広間を襲い「絶対音感がそんなに偉いか」「音痴で悪かったな」と怒鳴りながら皆を斬りつける。
という想像をしながらナタを木に打ちつけた。
息を荒くしていると側でじっと見ていた男の子がいた。
甥孫のユキ坊だ。
犬を撫でている。
「みんなと歌わないのか」と訊いても返事をしない。
「歌嫌いか?」とまた訊くと「キライ」とだけ答える。
こいつも集団のなかの「ノケモノ=黒い羊」か。
伊太郎はユキ坊の手を引いて家に戻る。
おまえがいるからみなを殺さずにすむ。
ピアノを焼いたからみなを殺さずにすむ。
明るいおふくろ。
だけどわかちあえない記憶がずっと燃えている。
家には寿司が届く。
表題作の『山へ行く』がこれまでの萩尾作品を払拭するような新しい作品だとすれば本作はまさに萩尾物語の真髄ともいえる。
作者自身が年を重ねたために主人公が少年少女ではなく「オヤジ」として描かれ憎悪の対称はすでに他界しているのだ。
それにしてもしんみりと相性の合わなかった母を思い出すのではなく「ナタを振り上げて親戚一同を皆殺しにする」想像をしなければならないとは。
とまたも作者の苦しみを思わせられてしまう。
ふと山岸凉子氏の『恐怖の甘いもの一家』というマンガを思い出してしまう。
山岸家は物凄い甘党だったのだが凉子氏だけが極端に甘いものが苦手だったという話だ。
たしか米飯にも砂糖をかけて食べるほどの甘党だったというものだった。
なのに一人だけ甘いものが苦手という。
食事は毎日毎日繰り返されるものであるからその苦悶は壮絶だっただろう。
比較することはできないがそれに対し「音楽」が得意な一家の中でひとり「音痴」であるという屈辱はまた違った苦悩だろう。
「勉強ができない」という苦悩とはまた違う屈辱だ。
「音痴だっていいじゃない。楽しめばいいんだよ」的な優しさはかえって辛いものではないだろうか。
伊太郎氏にユキ坊という仲間ができてほんとうによかった。
きっとお寿司も美味しく食べられただろう。
「メッセージⅡ 貴婦人」
「月刊フラワーズ」2007年3月号
Ⅰよりさらになにがなんだかわからない。Ⅰで美しい少女に言い寄っていた黒い男。
少女は皆に嫌われていたらしいが黒い男はそんなことは関係ないと少女に愛を伝えていた。
今度はふくよかな中年の貴婦人である。
彼女は信仰深く貧しい人々に慈愛を与えている、男はその美しい心と魂を愛することをお許しください、と伝える。
貴婦人は黒い男の礼儀正しさに好感を持ち手を差し伸べて口づけを許可した。
しかし男がその言葉で近寄り青い片手を延ばした途端貴婦人は怖れて「悪魔なの」と逃げようとして叫ぶ。
侍女が駆け付けてきた時男はすでに姿を消していた。
わからない。
なんなの?どういうこと????
なんでいつもほめちぎるのか???
いつかこの謎を解くことができるのか???
「柳の木」
「月刊フラワーズ」2007年5月号
柳の木の側に綺麗な女性が傘を持って立っている。
ひとりの男の子が成長して大人になっていく様子をじっと見ている。
やがてその男はその柳の木に向かって告げる。
「ずっとここで僕を見ていてくれたね。もう大丈夫だよ。お母さん」
柳の木の女性は泣く。
という感動的な話に思える。私は最初そういう「母の愛」を描いた作品なのだと思っていた。
しかしそうではないのではないか。
今読むと、これはただこの男性が柳の木をお母さんだと思っていた、というだけの物語に感じる。
お母さんはいないのだ。
柳の木はお母さんではない。お母さんは息子を捨てて出て行っただけで見ていてくれたりしていない。
「メッセージ」のほうは何が何だかわからないが本作は様々な要素が詰まっている。
「親」という字は「木の上に立って見る」という話があるが実はそうではなく・・・という「親」の由来をここで書くのはやめておく。直接関係ない話だからだ。
とはいえ木の側でじっと我が子を見ているという設定が「親」の意味のように解釈されそうだ。
しかし本作で萩尾望都は「母親が柳の精になってじっと息子の成長を見守ってくれていた」と男が思い込もうとしている悲しさを描いているのではないだろうか。
だけど柳の木はお母さんではない。見てもいないし何もしてくれない。
『メッシュ』で主人公が親に捨てられたあと、木に名前をつけてキスをしたりする場面がある。
それの別バージョンなのだろう。
ここでも母親に愛されなかった子どもの苦しみが歪んだ形であらわされる。
イメージのお母さんは綺麗なままで年もとらない。
でもこの作品を読んで「母の愛」に泣いてしまう人もいるのかもしれない。
心が試されている。
ちょっと怖い。