ガエル記

散策

『学生を戦地へ送るには―田辺元「悪魔の京大講義」を読む― 』佐藤優 その5

さあ参ります。

 

 

ネタバレします。

 

 

6 土曜夜「死に於て生きる」

 

「五 歴史に於ける発展と建設

歴史社会の構造契機である種族・個人・人類の関係を時間の過去・未来・現在に対比して考え、その契機のどの一つも他の二つを媒介している。その場合意志を持って為すべきことを為すのは個人の外にはない。種族と人類は決してそれ自身が直接に自覚的に意志を持って努力することはない。

個人は種族を人類の立場に媒介するものでありそこに個人の任務があるといってよい。

文化が建設されねば歴史の意味が成り立たないとすれば歴史に於ける個人の任務は大であることを認めねばならない」

ドイツ人にとって建設(Aufbau)という言葉は格別に心を打つものなのだという。

文化(Kultur)もそうであるという。

田辺元はナチスについてはまったく触れないという形で建設をキーワードにして日本の歴史を説明していくと佐藤氏は語る。

「われわれは文化の建設者なんだと」

 

指導者と専制君主は違う。指導と言われるには他の個人も追随することがなければならない。個人が国家に協力する意志をもって自発的に働いていることを見逃すことはできない。

佐藤氏はこれを現在ウクライナ東部で起きていることだと説明する。

ウクライナ東部にロシアの正規兵はひとりもいない。いるのはボランティアの人たちだけだ、とプーチン大統領は言ったという。ロシア兵たちに休暇を取らせボランティアとして向かわせるのだ。

それでも兵士たちは戦地に行くと「お国のために仕事をしているんだ」という気持ちになるのだという。

「自発的に働いていることを見逃すことはできない」

特攻隊が自ら志願したからくりがある。

 

佐藤氏はここから田辺元がレトリックを用いて巧妙に聞き手を騙していくのだという。

「個人は種族を媒介にしてその中に死ぬことによって却って生きる」

「私たち一人一人の力は小さい。何もできないんです」という個人を田辺は激しく叱る。

「きみは自分の力を過小評価している。君一人を除いただけでもう歴史はできないんだ。君のそういう態度はかえって傲慢なんだ」

と田辺は説いているのだという。

 

「その限り個人がなしうるところは種族のために死ぬことである。我々が何も為すことはできないといって働かないのは謙遜のようで実は傲慢である。何もできないなら種族の動く如く動いたらよい。そうすると却って種族は個人を生かさねばならないものであるから自己をも向うをも生かすことができるのである。国家の中に死ぬべく入る時、豈はからんやこちらの協力が必要とされ、そこに自由の生命が復ってくる。国家即自己といった所以であります。

種族の中に死ぬことによってそれを人類的な意味をもった国家に高めるという働きをなすということができる」

日本という種族に属しているわれわれ、名もなき人間が同胞のため──国家のためじゃない、同胞のため、つまり愛する妻のためこどものため父母のため妹のため友のために死ぬことによって永遠に生きることとなる。そして結果としてそれはわれわれが属する国家を強化することになるんだ。

「人類的な意味を持った国家に高める働きをなす」

直接的に国のために死ねというのではないのです。

友のために死ぬ、家族のために死ぬ、同胞のために死ぬ、つまり種族のために死ぬんだ。その結果、お前の死は国家のために貢献するんだと。

 

国家即自己、自己即国家というのはそういう意味なのだ。それでこそ名もなき個人が国家と一体化でき国家は人類的な立場に立てるのだ。

 

ここで話題はナチスが「悪」だけではなく良い方向にも貢献したことの話題となる。

「癌」を撲滅するためにまずは予防。早期発見早期治療を推進する。

国家として本格的に禁煙奨励し無漂白パン・バター、胚芽を使ったパンを始める。

ただこの考えが社会の中のガン細胞であるユダヤ人の除去へと結びつく。

これまでになかった大衆の観光旅行も始める。

そのためにアウトバーンを作り大型エンジンのついたバスを作り保養施設を作る。こうして大衆の健康管理をした。自殺も禁じた。

これらはつまり個人の身体は個人のものではなく指導者に奉仕するためのものだから。

女性はアーリア人種を増やすのが仕事であった。

 

一方、ムッソリーニは「能力に男女差はない」という考えでユダヤ人も差別しなかったという。

イタリアのために懸命に頑張る人々を束ねていく。束ねるという言葉が「ファッショ」なのだ。障碍者も保護したのだ。

こういう側面があるからファシズムは魅力的なのだがそのノリに乗れない乗れない人たちを非国民といって排除していく。最終的に社会的な緊張となっていく。

 

さて田辺に戻る。

「歴史を建設と見るか発展と見るかでどこが違ってくるかというと、建設という時は個人の決断が中心的な意味をもってくるところが違う」

建設というのは、あなた自身がなにをするかということだ。

日本の国があなたのために何をしてくれるかを考えるのではなく、あなたが国のために何をできるかを考えることだ。これが建設という考え方なんだという。

 

傍観者的な「発展」ではなく自分自身が貢献することが「建設」なのである。

命を何かのために捧げるという発想は凄く怖い。

大切な命を捧げる気構えを持った人は他人の命を奪うことに対するハードルが極めて低い、と佐藤氏はいう。

キリストは「汝自身を愛するように、汝の敵をも愛せ」と説いた。命を軽々に捨てるようなことを説くのは危険な結果を招来しかねないのだ。

 

この後佐藤優氏はおおまかに解説していく。

「六 歴史的現実の新段階」

天皇というもののなかに日本的なるものがすべて含まれている。

八紘一宇の意味。

歴史の終焉、歴史の一つの区切り。

いわゆる西欧主義が危機に陥っている。

現実においてはいつも肯定が否定と結びつく。悪をとおして善が実現される。

佐藤氏はこの言葉に「日本も植民地支配をしていかないと勝てないという悪を成すための言い訳とみる。

また田辺元の「しかし諸君が私の意見に同意なさるかなさらないかは諸君ご決断如何によるのであり、私の如何ともする事の出来ないことであります」という言葉を指摘する。

 

防衛戦争にはレトリックは不必要である。

だが侵略戦争とんあると知的な操作が非常に必要とされるのだという。

 

ということで田辺元『歴史的現実』の講義と質疑応答は終了しました。

 

続きは翌朝の柄谷行人氏『帝国の構造』になります。

続けるかここで終わるかは未定です。