1991年「プチフラワー」11月号
この萩尾望都感想シリーズはウィキペディアと「萩尾望都作品目録」に従って順に追っているのですがここにきて戸惑ってしまいました。
が、ある方の「カタルシスはイグアナの娘の後に描かれていますが」という文を見て「はて?」となったのです。
年表では本作が先で半年後に『イグアナの娘』となっているのですが手持ちの本(『イグアナの娘』)の本作の最後頁に確かに「1992年5月号」そして「イグアナの娘」の最後頁に「1991年11月号」と記載されています。
本が間違っているのか、wikiと作品目録が間違っているのか?
ネットユーザーも本で確かめた方とwiki及び目録で調べた方とで分かれているような。
しかし今までwiki&目録サイトで進めてきたので不確かですがこのまま書いていきます。
なのでどちらの作品が先か後かという点には触れることができません。
いやそんな前置きを書くような作品じゃないのですが。もっと違う書き出しをしたかったのですが。
ネタバレします。
というのは本作『カタルシス』が前後は不明としても『イグアナの娘』と対になっているからだ。
「対」というのはあくまでも「男女キャラ」での対であって対称的な進行にはなっていないのがせめてもの救いである。
片方が幸福になり片方が不幸になることでの対称ではない。
萩尾望都はどちらにもそれなりの逃亡先とそれなりの現実を与えているのだ。
ここでもう少し語ってしまえばやはり『イグアナの娘』のほうが出来栄えとして素晴らしい。
本作『カタルシス』はファンタジーには行かない徹底したリアルで描かれている。
一方『イグアナの娘』は主人公の女性が「イグアナ」の姿(に見えてしまう)というファンタジーの力を借りているのだがそこはやはり萩尾望都だからだろう。
ファンタジーの要素が加わることでよりいっそうテーマが明確となってしまうのである。
そしてよりリアルな本作の主人公は男子である。
女子にするのはあまりに辛かったからなのか。それとも『イグアナの娘』が女性だったので男性版としてつり合いをとったのか。そこはわからない。
実を言うと本作の物語はそれほど目新しいものではない。
子供の気持ちをわからず縛り付ける親との葛藤、という題材はうんざりするほど繰り返されてきたものだ。
もしかしたら本作を読んで「よくある話じゃないか。親なんか聞く耳持たないものだよ。大人になれよ」というので放り出してしまう読者も多いかもしれない。
さらに未熟な心理学勉強中のともよさんの介入が拍車をかける。
この辺がおもしろいとこで他の作家だとあっさりともよさんの登場で問題解決してしまったりもしそうだが萩尾望都の毒親問題はそんな生易しいものではないのだ。
ここで学友の正田ひとみの死と彼女の葬式に行けなかったことが主人公ゆうじの反抗のきっかけになっているがそれはむろんきっかけでしかない。
だが異性の友人だったということでゆうじの思いはまたも捻じ曲げられて解釈されてしまう。
そのことにもゆうじは苛立つのだ。
今度こそは合格しなければならない予備校生のゆうじが「家を出て一人で生活したい」と言い出し両親は反対し(あたりまえだが)特に母親は「この子はゆうじじゃない。おまえを一生許さない」と激昂する。
しかしその後、事態はぽかんと改善(?)する。
ゆうじは思い通りに自活し始め母親は宗教団体に入ってお祈りしはじめる。
そしてゆうじを救い上げてくれたおじと未熟なともよさんが仲良くなるのを見守るゆうじ、というのどかな終わりとなる。
考えてみればゆうじ君の人生は始まったばかりでこれからどうとでも変わっていくのだ。
この事件を後悔するかもしれないし良い選択だったかもしれない。
どちらにしてもそれはまだわからない。
少なくとも学友のひとみちゃんのように死んでしまわなければ。
ここでやはり『トーマの心臓』と重ねてしまう。
ひとみはゆうじが好きだったのだと友人が告げる。
ここでもゆうじが成長するためにひとりの友人の死が必要となってしまうのだ。
だけどトーマもひとみちゃんも死んでほしくないのだよなあ。
作品として美しいのだけども。
なのでやはり『イグアナの娘』の方に軍配をあげたい。
『イグアナの娘』でも人の死がきっかけではあるが。