
上の画像は拾ったもので文庫本のもののようです。
手持ちのアクションコミックス(1991年版)は表紙カバーが外れてしまっているのでどういう表紙か判りません。
ネタバレします。
「方舟が来た日」~「少年少女SFマンガ傑作大全集」(東京三世社)1983年3月~
地球にもっと妖しく不気味な動物がいればいいのに、という諸星氏の願望であろうか。
「難破船」~「少年少女SFマンガ傑作大全集」(東京三世社)1982年~
宇宙の墓場で幽霊にとり憑かれてしまう話、なのだが幽霊というよりも妖怪のようである。

「鎮守の森」~漫画アクション増刊『スーパーフィクション』(双葉社)1983年2月~
自分の好み的にはこの本の中で最も印象に残っていた作品だ。
後書に「柳田国男の『一つ目小僧その他』の影響を直接受けています」とあって現在民俗学にはまっているのを思うとやはりこういう話に興味があるのだなと今更思ったりする。
登場する主人公はいかにも温厚で真面目そうな青年である。
都会で就職していた彼が久しぶりに田舎の実家に戻り母から「この辺も変わったずら?」と問われる。
青年は穏やかに答えながらなつかしさに裏山へと足を運び”鬼の穴”と呼んでいたかくれんぼの場所を眺めさらに”鎮守の森”へと行き鬼ごっこをしたことを思い出す。
ふと見ると鬼ごっこをしている子どもたちに気づき青年は何気なく「おじさんも仲間にいれてくれないか」と声をかけ逃げながら「もういいよ」と答えてさらに走り出す。
なぜか青年は夢中になって走り出していた。
その時、後ろから追いかけて来た者がいた。
髭面の怖ろしい形相の男が青年を捕まえるやその片目を潰したのだ。
気を失った青年が眼を開けた時、その男が神木の前で斬り殺されたのを見た。
その日から青年は村の中に作られた牢屋に入れられ巫女が運ぶ食事をとる生活を強いられた。
いつしか青年は髭面となり自分の運命を認識しはじめた。
毎年村の中から頭屋と呼ばれる鬼がひとり選ばれる。その鬼が村人の中から次の鬼を選ぶのだ。
皆それを避けようとして逃げるが結局誰かがつかまる。
そして古い鬼は殺されるのである。
おれは生贄。人身御供なのだ。
ここにいたら殺される。
青年は必死で牢屋の下の地面を掘り逃げ出した。
青年は子供たちの遊びである”鬼ごっこ”はこの儀式を模したものだと知る。
一年間牢屋に閉じ込められた男は神の依坐となりその印として片目を潰される。
一年経つ頃には精神状態は尋常ではなくなり「神が依りついた」とされ生き神と崇められ神の言葉を伝えて殺される。それが儀式だ。
そう。鬼ごっこの”鬼”は神だったのだ。
しかしなぜ・・・なぜおれが・・・。
村人の目を逃れまわり過ごすうち、青年の服はすでに破れちぎれそうなのをひもで縛りつけ木の実や山菜を見つけては食いつないだ。
だが冬になりそれすら手に入らなくなると青年はついに子守をしている女児に手をかけ、さらには旅人を襲うようになった。
火を使えば発見される恐れがあるので生で喰うのである。
村人は近寄らなくなった。
春になっても青年は人肉を喰い続けた。
一年経った。
新しい生贄の日となった。自分の身代わりになった男が新しい鬼を捕まえていた。
一年間頭屋をつとめた者は神と会話ができるようになり死んだ後も神の眷属となる。
しかし途中で逃げ出したおれはもはや神にはなれない。普通の人間にも戻れない。
ではなんだ?
鬼だ。
神にもなれず人間にも戻れない者は鬼になるしかない。
おれは鬼だ。鬼ごっこの鬼だ。
その時、青年の耳に子供たちの鬼ごっこの声が聞こえた。
「もういいかーい」「まーだだよー」
青年は子供たちを追いかけた。
青年・・・といっても一年前のおとなしい温厚な姿ではなく人肉を食べ続けた野獣のような姿の男であった。
「もういいかーい」と青年は叫んだ。
小さく子供の声が「もういいよー」と答える。
走り出した青年は一年前にいた場所に立っていた。
凄みのある髭面で血にまみれ破れちぎれた服を身に着け片目は潰された姿で。
淡々と穏やかに進行する漆原友紀作品を読んできた後なのでより諸星大二郎作品が強烈に思える。
両者の作品はそれぞれのよさがあると思うが現在では漆原作品の方が読みやすいのかもしれない。
とはいえ同じく柳田国男的な世界を描いている両作品はむろん共通点が見いだせる。
『蟲師』ギンコが片目なのはこの作品で説明されているとおり神の声を聞く印としてのものなのだろう。
しかし恩師といえるぬいから優しく片目を取られる描写と違い本作の痛そうなことよ。
またタイムリープものでもあるが、昨今の都合よすぎるタイムリープものと違い片目はもう戻らないのが諸星作品の怖ろしいところである。
あの真面目そうで優しそうな彼はもうどこにもいない。
人肉喰いの髭面片目潰され男なのだ。どれくらい人を喰ったのか。
単純にタイムリープして恐怖体験したとも思えるが現代社会において人身御供になれなかった者は”鬼”として生きねばならない、という比喩とも考えられる。
例えば会社において、ともいえるが女性が辛い結婚出産育児から逃れた場合”鬼”として生きねばならないのだ、という恐ろしい表現にも思えてしまうではないか。
現代、「鬼になる」話気になる。
「ぼくとフリオと校庭で」~『少年ジェッツ』増刊(白泉社)1983年1月
表題作の不思議なお話。
フリオから「ジロちゃん」と呼ばれる主人公の愛らしい少年は諸星大二郎さん本人なのだろう。
関西弁を話す奇妙な少年フリオ。「UFOを見た」とか「念力を使う」とか変な嘘ばかりついていてクラスメイトにはかなり馬鹿にされている。
主人公のジロちゃんもうっすら怪訝に思ってはいるもののどこかフリオの自由奔放なところに惹かれてもいるのだろう。
フリオは「明日UFOがわいを迎えにくるんや」という。
またいつものホラ吹きだと思っているジロではあったが翌日彼が転校したと知り、ほんとうにUFOが現れフリオとその父親を乗せていってしまったと慌てる。
少年期のあやふやな記憶がノスタルジーを呼び起こす一篇である。
今読み返していたらフリオの顔が紅孩児に似ていて微笑ましかった。
紅孩児もフリオ君のようだったら悟空にとっていい思い出になったのになあ。
いやいや紅孩児の執着はそんな甘いものじゃないからね。