
2005年アメリカ制作映画でアマプラでもしょっちゅう目にしていたのになぜか初鑑賞である。
昨今映画ドラマ鑑賞にまったく集中力が続かず難儀していたが本作は気持ちがそがれることなく見続けられた。
ホラーサスペンスなら退屈しないだろうと思われるかもしれないが逆にあのジャンルの映画は「よくある演出」が頻発する(鑑賞者が期待するのもあるのか?)のが却って興ざめで見れなくなってしまうのである。
怖がらせようとする意識が嫌で怖がらせないホラーサスペンスを観たいのであるがなかなかそういう作品はない。当然でもある。
で、この作品もそうだろうと思い込み20年間も見過ごしていたのだが”あにはからんや”であった。
ネタバレします。
本作『エミリー・ローズ』は誠実なホラー映画であった。
ホラー映画とだけ呼ぶのでは不足なのかもしれない。
上質の法廷ものでもあり人間の精神を見つめた作品でもある。
そう言う意味では前回鑑賞し得た『教皇選挙』と同じカテゴリともいえるだろう。
ホラー映画として必要な怖ろしい描写も多々あるのだがそれが物語として必要な表現としてのみ描かれている。
私はウィリアム・フリードキン『エクソシスト』をホラー映画の最高峰の一つと思うのだが本作もそれに並ぶと言ってよいのではないか。
1973年製作『エクソシスト』からおよそ30年後に同じく”エクソシスト”をモチーフとして佳作が生まれたことも興味深い。
題材となるのは”少女”である。
『エクソシスト』では12歳の少女リーガンがその餌食となり本作では19歳のエミリーである。
ティーンエイジ、特に少女の精神が極めて情緒不安定に描かれがちなのは正当なのか不当なのか。
少女という存在がこうした題材に使われがちであるのはフェミニズム的にどう考えられるのだろうか。
私自身女性なので少女というものが過度に神聖化あるいは好奇心のみで描かれることに反発はあるが精神の不安定さに関しては同意できると考えている。
それはたぶん妊娠出産できる身体になるために変化をしていくためでそれが比較的安定した個体とそれに対応しにくい個体があるのではないかと考えられるからだ。
そして対応しにくい個体は思考を必要とする。
「なぜこんな苦しみを味わわなければならないのか」
エミリーの場合はそれが信仰に結びついたのであろう。
もちろん彼女はキリスト教圏の人間なのでキリスト教そしてカソリックとしての思考になったわけで生まれ育った場所に応じて少女たちの思考はそれに倣ったものになるはずだ。
おもしろいのは(というべきなのかは別として)1975年『エクソシスト』では神父デミアン・カラスが少女リーガンを救うために自らの体に悪魔を乗り移らせて自死するという解決をとるが2005年映画『エミリー・ローズ』では神父はエミリーの救済の手助けをしただけで死にはしない。
2005年の世界では少女もまた自力で戦わなければならないのだ。
それゆえ1973年で何事もなかったかのように救われ生活していけるリーガンと違い2005年少女は戦いの果て死なねばならない。
救けだしてくれる男性はもういないのだ。
この違いがはっきりと描かれた。
『エミリー・ローズ』の元ネタ「アンネリーゼ・ミシェル事件」は1976年に起きたものだ、という指摘は当てはまらない。
映画作品としてやっと今「ひとりの女性の戦い」として描かれ発表され評価されたという意義なのである。
同時にエミリーを救済しようとした神父の裁判で弁護人となる女性も描かれる。
本作のもうひとりの主人公エリン・ブルナーである。
あまり強調されてはいないが(それも本作の品のよさだが)彼女もまた女性であるがゆえに男性たちからの脅迫と戦わなければならない苦悩が描かれている。
エリンはもうひとりのエミリーなのだ。
女性は少女期に女性性としての肉体と精神の不安定さと戦い成人しては男性性と戦わねばならない。無論男性だって同じだとしても。
エリンの戦いは非常に不利であり検察の男性そして同じ弁護士男性から脅迫を受けるが辛抱強く戦って勝利する。
少女エミリーは肉体的には死んでしまったもののその精神は「戦うことを選ぶ」という尊厳に満ちたものだった。
その尊厳は女性弁護士エリンに受け継がれたともいえる。
エリンはエミリーの意志を受け取り『エクソシスト』では死ななければならなかった神父を救ったのである。
つまり男性からの脅迫と戦っただけでなく男性を救い出したともいえる。
完全に『エクソシスト』の真逆を行った作品であった。
たぶん『エクソシスト』を名作とした上での映画としての戦いだったのではなかろうか、と憶測する。
1973年『エクソシスト』では男性(神父)に救われる少女が描かれ、その30年後2005年に少女&女性によって男性が敗北しまた救われる作品『エミリー・ローズ』が作られたのである。
だが、時代はさらに続く。
『エミリー・ローズ』の20年後である2025年現在「ちょっと待て」とは思う。
この物語の根本に疑問を感じてしまうからだ。
というかそもそもの『アンネリーゼ・ミシェル事件』の際にはすでに取りざたされていた疑問が『エミリー・ローズ』ではあえて無視されているからだ。
それはもちろんこの物語を法廷ホラー作品として表現するための無視である。
たぶん2005年にはあまり問題視されていなかっただろう「毒親問題」が当然のように描かれていないのを今現在2025年では看過できない。
もう一度言うが『アンネリーゼ・ミシェル事件』1976年時にはすでに「両親からの厳しいカソリック教育による癇癪」と見られているのに本作では両親の教育がどのようなものだったかは削除されている。
アメリカの多くの地方生活で過度の信仰教育がされていることなどを考え想像するしかない。
悪気はなかったのかもしれないが本作の両親もエミリーに厳しい規範を求めていたのだろう、と憶測するしかないのだが問題はそこにこそあるわけで現在なら「そこ」を描くことになるだろうがそれはしかし『キャリー』ですでに作られてしまっていたりはする。
(しかしそうだっただろうか。原作キングは描いていたがデ・パルマ映画で「毒親問題」がどこまで描かれていたか、覚えていない)
「毒親問題」を避けてしまった『エミリー・ローズ』が今現在の観客にはどう受け取られてしまうか。
その部分を観ないことにすれば名作だが「毒親問題」に敏感な観客からは指摘されてしまうだろう。
『エミリー・ローズ』制作2005年から20年後の2025年現在では「毒親問題」を無視した本作がすんなり絶賛されるかどうかは怪しいともいえる。
何故エミリーがこれほど苦しむことになったのか。
孤立した場所に立つ一軒家に生まれ育ちひとり大学へと進んだエミリー。
彼女の言葉から田舎生活から逃げ出したかったことは確かだ。
それとも元ネタである「アンネリーゼ事件」から考えなけらばならないのなら「厳しい信仰教育」というのがどれほどのものだったのか。
不安定な十代の少女にどのような影響があったのか。
それを無視して今この映画を考えるのは無理なのは確かだ。