ガエル記

散策

『日本人と日本文化』対談ドナルド・キーン 司馬遼太郎 「宗教」

昨日の続きになります。

ドナルド・キーン氏と司馬遼太郎氏の対談『日本人と日本文化』の第二章でキーン氏は著書にこう書かれたそうです。

 

東南アジアと比べると、日本仏教はあまり目立たない

 

この一文にある日本の大学教授が「われわれの心は外国人には透過できないのだ」と書いたそうでキーン氏は「失礼な発言だ」と司馬氏に訴えています。

 

私はむしろ常々「日本人は(自分も含めて)どうしてこうも宗教的ではないのだろう」と思い考え込んでいましたのでキーン氏の言葉は「まさに」と頷けますしその大学教授にこそその言葉の意味を問うてみたい気持ちです。

東南アジアの仏教だけではなくイスラム圏やキリスト教圏と比較しても日本人の宗教観の薄さはとても奇妙に思えます。

宗教に対する縛りが軽いことで便利な部分も多くありますがそれ以上に物事を深く考える意識というものが失われてしまっていることに対して「果たしてこれでいいのだろうか」と思ってしまうのです。

 

もちろん私たち日本人の多くは仏教や神道そしていろいろな宗教儀式の好ましい部分を選択して日常に使用するという形式をとっています。

新年に神様に祈り、おみくじを買い仏教による葬式を行いチャペルで結婚式を挙げクリスマスを祝う、といった感じです。

13日を怖がったり、仏滅に気をつけたり夜中に爪を切るのはやめている人もいるかもしれません。

が私が気になっているのはそうした儀式的な事だけではなく自分たちが持つべき理想や哲学を考えていく姿勢なのです。

宗教をそのまま鵜呑みにせずともそこから思考を発展させていくのは重要なことに思えます。

あまりにも宗教意識が薄いことは精神と思考の弱さを感じさせます。

司馬遼太郎氏もキーン氏の後に続き「東南アジアでは生活の仕方や手足のあげ方まで決めているほど仏教でできている。それが仏教というものだが、日本では立派な建物にはなったが宗教とか哲学にはなってないんじゃないか。インテリの遊びにすぎなかった」という旨を述べています。

司馬氏はやや冗談めかして口ごもっているのですが私は自分が思っていたことをここに書かれたように感じました。

(司馬氏が口ごもったのはこの発言をした時に真面目そうな尼さんが聞いておられたからだそうなのですが、もしかしたら彼女はこの言葉をまさに真摯に受け止められたかもしれません)

 

とは言え「宗教を持て」と言っても国民性がそうではないのなら無理強いはできないのでしょう。

日本にはもともと八百万の神がいるのだから特定の神だけを信仰できないのだ、という言説もあります。

そのことを良しとする向きもあるのでしょう。

 

私自身ひとつの宗教を信仰している者ではないわけです。信者であるべきというよりも宗教をもとに考えを深めていきたい、という考えでしかありません。

信仰的な人とそうでない人の比較論も重要だと思います。

日本人はその「そうでない人」の役割を果たしているのかもしれないと思えば納得すべきでしょうか。