ガエル記

散策

『親という名の暴力』小石川真実

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両親から精神的抑圧を受け続けるとどういう人格になりどういう人生を歩むことになるのか、ということを教えてくれる一冊でした。

タイトルの「暴力」は肉体的性的なものではなく精神的暴力なのですが精神的暴力というのは子供にも周囲の人にもわかりにくく、そのため長く続き本人の思考を歪ませてしまいます。

 

医師である著者は自分以上に両親の精神の歪みを見つけることになります。それもまた彼らの親たちから受けた精神的抑圧からくるものでした。

著者は両親に比べればまだ自覚できた自分に安堵していますが本著を読めばその文章の異常性は明らかです。

本人は「初めて書いた」ことと「書き始めたら記憶が押し寄せてきた」「どれも重要で削除できない」ことから膨大な記録になったと記していますが、些末な数字の記録や不必要な形容詞の多用を無くしてしまえばかなり文字数は減らせると思います。

ただ著者の精神の歪みがそこに現れていることを考えれば確かにこの長さが重要になってくるのです。

担当した編集者もこの異常性こそが本著の核になるのだと思ったのではないでしょうか。

例えば「叱られた」とだけでいい文章に必ず「こっぴどく」という言葉が付属するのです。

1ページに二度も「こっぴどく」という形容を使っているのもあって著者にとって「叱られた」ことがいかに「こっぴどい」ものだったかが伺われます。

他にも両親への思いが「吐き出す」「強く疑う」「判然としない」「極めて世俗的」「人格を否定」というような強い表現によってあらわされます。

必要のないほどの漢字の使い方もあるのですがそうした「過剰にきつい言葉」の多用がむしろあまり知性の無さを感じさせてしまいます。

もし著者が学歴や職歴を記していなければアカデミズムに憧れているが到達できなかった人物の文章と読んだかもしれません。

つまりそこまで著者の感性は破壊されてしまったのだ、ということになります。

 

もしかしたらご本人と対面しての印象はそうしたものではないのかもしれません。

しかし文章には内面が現れてしまうのです。

繰り返し使われる「激烈な表現」は平易な言葉では自分の苦しみは到底吐き出せはしない、という意味なのでしょう。

分厚い本の中にはひとりの人間の苦悩がこれでもかと圧縮されていました。

 

こうした子供を早い時期に救い出せることはできるのでしょうか。

 

 

たとえば「こっぴどく」という言葉が多すぎるのですが

 

著者の持つ優れた能力、勉強を楽しみ東大に入り医者となることができたのは親からの遺伝子と一応そこへ進むことができた生活を与えてくれたのは間違いないでしょう。