1971年「COM」1月号(1970年8月)
これはもう完全な萩尾望都SF世界。
今描かれたと言っても肯けます。
ネタバレします。
レイ・ブラッドベリ的でもある。
こうして続けて読んでいくと萩尾作品が常に描いているのは社会からはじき出されてしまった少女(特に家族から)の強い意志なのだがその結末もまた皆に馴染んでいくというものではない。
つまりそう簡単に仲良しにはなれないのだ。
それでも私が「萩尾作品は明るい」と感じるのはそうしたはじき出しをされても少女は「私は私が求めるものを求める」と意志を変えずキッとした目で前を見ているからだ。
『ルルとミミ』ではママとは違うおかしなケーキを作り『すてきな魔法』では誰もやらない奇術の名人を目指し『クールキャット』ではママが嫌がってもいたずら猫を庇い『爆発会社』では「女の子は幸せな結婚をするのが一番」というママを無視して仕事を探しとんでもない男と結婚する。
『ビアンカ』では森に逃げ込み『ケーキケーキケーキ』では親の希望通りの姉二人と違いひとりレールから飛び出して別の方向へと走っていく。ラスト、一切家族のことを考えていない。
そんな萩尾望都描く少女というか萩尾望都自身の少女は本作では「あんな風に一人だけ別個の考えをもってちゃ困るんですよ」と言われてあっさり皆から消去されてしまうのだ。
その描写はまったくドライで少女の涙などは描かれない。
私としては少女はどっこい別の場所に転移し「私は私の思い通りに生きるわ」とやはり突っ走っているような気がしてならない。
その後描かれる作品でも少女たちは泣きながら死んでいったりはせずに「唯我独尊」(ってこういう時に使うのか)「我が道を行く」で振り返らずに歩み続けていくからである。
そ何度も挙げる『スター・レッド』はむろん『アメリカンパイ』でも少女は我が道を進んだ。
少女たちがあまりにも突き進むので悲しい話を作るには男の子を使わざるを得なかったのではなかろうか。少年になればやや逡巡するようだ。
強い少女というのは力持ちや殺傷能力の意味ではなく自分の意志で自分の道を見つけ歩き続けることであろうし萩尾望都作品が心地よいのはそんな少女を描いてくれたからなのだ。
なので本作を読んでも少女がきっとどこかに転送されたに違いない、と信じ切ってしまうのである。