ガエル記

散策

『ポーの一族』「すきとおった銀の髪」(1815年ごろ)萩尾望都 

1972年「別冊少女コミック」3月号

ついに到達した『ポーの一族』です。

ポーの一族』にいついて何を語りたいか、今はまだ何もわからずにいます。

いったいこの物語が私にとってなんだったのかをこれから考えていきたいと思います。

 

 

ネタバレします。

 

 

本作ではないが私が初めて萩尾望都作品として認識したのは『ポーの一族』だった。

それはとても幸福なことだったと思う。

 

以後、『ポーの一族』第1巻を買って読みこの作品は末尾に収録されていた。

確かに本作は先に収録されている「ポーの一族」より絵がやや稚拙でその時の私でもこの作品が前に描かれたと気づいていた。

しかしその世界観はすでに明確にされていたのではないだろうか。

 

私が『ポーの一族』に対して最も謎に思うのはこの作品が一貫している目的をもっていないことだ。

そもそも(本作以外の話になるが)エドガーとメリーベルはなりたくてバンパネラ(吸血鬼)の一族になったわけでもなく永遠の命を求めたわけでもない。

14歳と13歳という長く生きるには困難な年齢で時を止められてしまうのだ。

(これはレイ・ブラッドベリの作品からの発想だったと思う)

そして彼らは何の目的もなくその時間を生きていかねばならない。

もしこれが少年マンガだったらこんな設定はあり得ないだろう。

必ず宿敵を作り、つまりドラキュラに対するヘルシング博士のような存在である。

人を襲って生き血を吸うバンパネラが盗賊のルパン三世なら銭形警部は不可欠である。

なのに萩尾望都はそうした仇敵を創造しなかった。

なぜなんだろうか。

エドガーを悪の吸血鬼組織『ポーの一族』の首領として世界征服を野望とさせてもよかった。少年マンガを好んで読んでいた萩尾氏なら一度は考えたのではなかろうか。なのにそうはしなかったのである。

エドガーは妹メリーベル後には同じ見た目年齢のアランを相棒として永遠の時を生き続けるだけのいわば歴史物語として構築していったのである。

それだけで物語を続けてしまう技量の方に恐れ入る。

では『ポーの一族』はどのように語られているのか。

それはこの発表の第一作「すきとおった銀の髪」ではっきりと示されている。

ポーの一族』はエドガーが作る物語ではなくエドガーたち(ここではメリーベル)に出会った人間つまり私たちが作る物語なのである。

 

本作の主人公、普通の少年であるチャールズは空き家に越してきた一家の娘であるメリーベルをひと目見てそのすきとおるような美しさに恋をする。

仲良くなれたもののいつも冷たい目をした兄のエドガーに遮られそしてメリーベルは間もなくどこかへ旅立ってしまったのだ。

 

初恋の面影を忘れきれぬままチャールズは別の女性と結婚をし30年という時が経ってしまう。

そしてあの時のメリーベルとそっくりな少女に出会うのだ。

チャールズはその少女がメリーベルの娘だと信じて話しかける。

しかしその少女は「わたし生んでくれたお母さんのことは何も知らないの」と答える。

その時「メリーベル、おいで」と声をかけてきた少年がいた。

それはかつてふたりを遮ってきたあのエドガーだったのだ。

チャールズは去っていく二人を見つめるだけだった。

 

たぶん平凡で幸福な人生を送ったチャールズに一抹の不思議と憧れを投じた少女メリーベルとその兄エドガー。

チャールズは彼らが何者かは知らぬまま美しい銀の髪の少女を想い続けるのだろう。

 

彼らはいったい何のために存在するのだろう。

この物語が一部の者たちを強く惹きつける一方で大規模な評判にならないのはやはり判りやすいこけおどしがないからなのだろう。

彼らはただ生き続け私たちはただその姿を時折見かけるだけなのである。