ガエル記

散策

『憑依と抵抗』現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム 島村一平 その2

ネタバレします。

 

 

【第1部 グローバル世界を呻吟する】

1 シャーマニズムという名の感染症

 

ここで最も気になったのは「逆転する社会関係」という項目だ。

例えば家事だけをしている30代女性の話。

同居する両親や高収入の妹に対して頭の上がらないこの女性がシャーマンになり先祖霊が憑依し「お婆様」と呼ばれる存在になると家族は彼女にかしづくことになる。

彼女は母親に対し「おまえは、私のメッセンジャーである娘を無碍に扱った」と言って手にしたシャーマンドラムの罰と刀の柄で母を殴打したが母親は抵抗するどころか「許してください、おばあ様」と平伏して謝るのだった、と書かれている。

 

これを読むと日本における(また他の社会でも、だが)「毒親問題」を思い出してしまう。

日本で同じように「シャーマンとなる」としてこのような「社会的関係の逆転」が起きるのだろうか。

もし起きるのなら毒親を持つ子どもたちにとっての朗報になりそうだがここで重要なのは先祖に対する「畏怖の念」なのだろう。

先祖への畏怖の念を持つからこそ社会的関係が逆転するが畏怖の念を持たない社会ではシャーマンは成立しないのかもしれない。

果たしてどうだろうか。

 

当然のことながら日本ではこのシャーマンの役を「マンガ」が果たしているような気がする。

「マンガ」の中で弱虫のヒーローが劇的な変身をして社会的関係を逆転させてしまう。

あるいは今ならゲームであるのかもしれない。

ゲームやマンガが作用している社会ではそれらがシャーマンとなっているのではないだろうか。

この本の中のモンゴルではシャーマンになることで惨めな状態の自分が自己肯定を得られるように日本ではマンガやゲームの中のヒーローに自己投影して逃避する。

ヒーローが自分に憑依するのではなく自分がヒーローに憑依することで抵抗しているというのだろう。

人間はこういう仕掛けなくしては生きていけないのかもしれない。

 

 

もうひとつは「追記」である。

2022年1月と記された追記には「(モンゴルの)シャーマニズムは2010年半ばを過ぎると次第に下火になっていった」とある。

シャーマンになった人々が次々と「シャーマンを辞めていった」のだという。

その一方で2010年代後半よりチベット・モンゴル仏教寺院が裕福になる壺を売り出した、らしい。

これはもう日本でも新興宗教の「壺売り」そのままで「さもありなん」としかいいようがない。

しつこいが日本でのシャーマニズムはマンガやゲームがその代替えをしているのだが(少し前まではアイドル歌手などもいたが)それらでは代替えにならない人々が新興宗教の壺を買っていたのだと思う。

マンガでは「かっこいいヒーローヒロイン」をやたらと「神!」と言って崇めるのだから解りやすい。

シャーマニズムが衰退していった現在モンゴルでは何が「神」になっていくのか。

私はそこにも日本アニメやゲームが浸透していくのではないかと思っているのだが。